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利尻島コンシェルジュ/観光スポット #2 ぺシ岬

概要

『ぺシ岬』はアイヌ語で「シぺシ」。”大きな崖”という意味。
利尻島の玄関口・鴛泊(おしどまり)港にある標高93mの巨大な岩山(溶岩ドーム/安山岩)です。岩壁は、オオセグロカモメやウミウなどのコロニー(繁殖地)でもあります。バードウォッチングができる場所としても最適。

ぺシ岬は、別名「灯台山」。島民はこのように呼んでいます。
ぺシ岬は、遠くから見ると岩山全体がゴリラの後ろ姿に似ていることから「ゴリラ岩」とユニークな呼ばれ方もされています(個人的にはゴリラ岩よりキングコング岩の方がインパクトある呼び名だと思いますが。。。)

ぺシ岬にまつわるアイヌの伝説に「この岬に追い詰められた妖女の呪いで岩が割れ、この岩壁に巨人の顔が浮かび出た」という話があるそうです。

通称「灯台山」や「ゴリラ岩」と呼ばれるぺシ岬

白い灯台(鴛泊灯台/北海道初の石造灯台)が建つ岬の頂上付近は展望台になっており、「一等三角点」(三角測量という測量法のために設置された点のこと。その位置や標石により示される。全国に970以上)があります。

ぺシ岬展望台

中腹に広場がありベンチが設置されています。会津藩士の墓も置かれています。

会津藩士の墓

『文化5年 会津藩士の利尻島警固』
今から220年ほど前、時は江戸時代、鎖国下にあった日本に対して、ロシア側から通商を求める動きが強くなってきます。
日本は、ロシアの要求に対し断固拒否したため、ロシアも武力行使という手段をとってきました。
その標的となったのがロシアから近い樺太(現サハリン)や千島で、利尻島も例外ではなく1807年(文化4)に襲撃に遭い、商船などが焼き払われたり、島民が捕虜に捕らえられたりしました。
ペリー来航の50年前、すでに外国の洗礼を受けた事件でした。

会津藩は、翌1808年(文化5)、樺太島での警備中、幸いにもロシア側との交戦はなく、約三か月で任務を終え、会津に帰還しました。
しかし、樺太警備を終えた藩士を乗せた7隻のうちの1隻である観勢丸が、その帰途で暴風雨に遭い、利尻島のリヤコタン(現在の沓形~種富町の海岸域)に漂着し大破沈没するという痛ましい事故が起こりました。
利尻島内では、その事故で命を落とした者と利尻島で駐屯していた梶原平馬以下252名のうち病死した者8名の藩士を弔った墓碑が鴛泊ぺシ岬、本泊慈教寺、種富町の三か所に安置されています。建立された年代については、よく分かっていませんが、1810年(文化7)に会津藩主であった松平容衆(かたひろ)の命により新潟で刻んだ石を松前経由で各地に運んだといわれています。また、稚内の宗谷護国寺と焼尻島にも、それぞれ2基ずつ墓碑が残されています。
■ぺシ岬に祀られている藩士(三基)
・樋口源太僕孫吉(利尻詰)
・渡部左右秀俊(利尻詰?)
・丹羽織之丞僕茂右衛門(樺太詰)

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頂上までは、急な坂道(遊歩道)を登ることになります。コースは2ルート。急な坂道を利用する場合は、頂上まで約20分。灯台付近を経由するルートは、比較的なだらかな遊歩道なのでシニア向けでしょうか(どちらのコースも大小の石が敷かれているので革靴などでは少々、厳しい。中腹/ロータリー憩いの広場までなら大丈夫)。雪が降っても通行止めにはなりませんが
5月から10月が訪れるベストシーズンでしょう。

意外と急こう配

晴れた日には、頂上から利尻山、礼文岳、稚内、そしてロシアのサハリン島などを望むことができる”360度見渡せるビューポイント”です。
また、オレンジ色に輝く朝日を浴びることができる場所でもあり、早起きした方だけが体感できます。礼文島を背に沈む夕日も望めます。

ぺシ岬から望む朝日

歴史

現在のぺシ岬は、1つの岩山ですが、昔は、大小2つの岩山でした。
小さい岩山は、アイヌ語で”小さな崖”を意味する『モぺシ』と呼ばれました。

赤丸の囲みが「モぺシ」

このモぺシは、稚内港にある『北防波堤ドーム』(北海道遺産)を建設する時に、その”基礎石”として海底に沈められ使用されたのです。
はじめは、鴛泊の湾内の波打ち際にあった”玉石”が使われていました。

それが無くなってしまうとぺシ岬(灯台山)に目が向けられ、小さな岩山「モぺシ」が注目されます。モぺシは、大正末期から昭和初期にかけダイナマイトで爆破され、石は、岬の裏側からトンネル(現存)を通ってトロッコで運ばれ鴛泊港から盤船(ばんぶね)と呼ばれた艀(はしけ)に積み込まれ稚内港へ運ばれました。
それ以来、ぺシ岬は、現在のような姿になったのです。

鴛泊港に待機する「盤船」と曳き舟
石の運搬で使用されたトンネル跡

忠魂碑と石碑「山神」

爆破され、その姿を消したモぺシ跡に「忠魂碑」が建てられ毎年、慰霊祭が行われたと記録に残っています。慰霊ということなので、もしかすると”山の神”を慰霊するためだったのでしょうか。
そこでは、軍人による剣道や銃剣術の試合やいろいろなイベントが行われたようです。
忠魂碑は、その後、『利尻山神社』境内に移設することになり島民の手で何日も掛けて運ばれたといいます。

利尻山神社(利尻富士町)

現在、モぺシ跡地には、『山神』と刻まれた石碑があります。
いつ頃から設置されたかなど詳しいことは、分かっていませんが、人間の仕業に対し”山の神のお怒り”を鎮めるために島民の誰かが密かに置いたもかもしれません。

石碑「山神」

厳島神社

ぺシ岬の麓には、文政年間以降に建立された『厳島神社』があります。
神社には、1830年(文政13)に奉納された石造りの鳥居が残っています。

写真右下の赤い屋根の建築物が「厳島神社」

『厳島神社』~利尻の弁天さま
フェリーが鴛泊港に近づくと(進行方向右手に)、ぺシ岬のふもとに赤い建物が見えてきます。この建物は、『厳島神社』(弁天社)の社殿で、海を見守る神として文政年間(1818~1830)以降祀られてきました。
その由緒を物語るものとしては、1830年(文政13)に奉納された石鳥居が残されています。
これは当時、漁場の請負人であった藤野家のもと本泊の運上屋で支配人をしていた阿部喜右衛門と住吉丸船頭の清六という人物により寄進されたものです。彼らは、同じ時期に奥の院へ鳥居や常夜燈(石灯篭)、手洗鉢も奉納しています。これら奉納物は、本州から弁財船で運ばれ、漁場の繁栄や航海安全を祈願するためのものでした。
また、社殿内部には、かつてリイシリ運上家と透かし彫りされた黄銅製の釣灯篭があったといわれています。
近隣では、稚内をはじめ枝幸、礼文、留萌、苫前、増毛などに厳島神社が点在しています。各神社の奉納物は、文政時代以降のものが大半で、漁場請負人の栖原家や藤野家によって漁場が整備されていく時代を象徴しています。

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ぺシ岬遺跡

ぺシ岬周辺には、続縄文時代からオホーツク文化後期の遺跡が分布しています。しかし、一帯は、モぺシが爆破され更地にされるなどの影響があり、あまり調査が進んでいないようです。

ぺシ岬一帯は、岬のふもとから中腹(現在、会津藩墓碑がある広場)にかけて分布する「ぺシ岬遺跡」と鴛泊灯台周辺の「ぺシ岬燈台遺跡」、ぺシ岬南側斜面に分布する「鴛泊港遺跡」の3遺跡が知られています。
「ぺシ岬燈台遺跡」の場所は、灯台用地として利用される以前、竪穴式住居跡などが残されていたそうです。また、「鴛泊港遺跡」では、オホーツク文化中期から後期の土器が確認されています。
1969年(昭和44)のフェリーターミナル新設工事の際には、頭蓋骨が発見されています。

現在

頂上付近にある白い『鴛泊灯台』は、2019年に日本ロマンチスト協会より『恋する灯台』に選定され利尻島内の沼浦地区にある『白い恋人の丘』と並んで”恋人たちの聖地”として人気の高いスポットになっています。
灯台近くには、写真撮影用に「LOVEベンチ」が設置されていてスマホ撮影用の台もあります。

『鴛泊灯台』~北海道初の石造灯台
鴛泊灯台は、1892年(明治25)に建設された北海道初の石造灯台です。現在の灯台は、1953年(昭和28)に改築されたコンクリート造りですが、初代は、切石を積み上げた円形の壮麗な灯台であったようです。
そして、北海道の石造灯台は、後にも先にも、この鴛泊灯台だけであったことが知られています。また、使用された白い石材の調達先の記録がなくて島内からか島外から運ばれたのか不明なままだといいます。
また、初代灯台使用の回転フレネルレンズと回転装置(てんろく装置)が東京の公益社団法人「燈光会」(東京都港区西新橋)に保存されているそうです。
※2020年(令和2)利尻富士町開町140周年のメイン記念展示として「回天フレネルレンズ」が里帰りし、往年の光をともしました。

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現在の「鴛泊灯台」


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