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24歳を振り返って

先月末に25歳になりました。
人生100年時代といわれる中、その4分の1が過ぎました。

人生4分の1締めくくりであり、社会人3年目を迎えた24歳はこれまでの人生の中でターニングポイントとなるインパクトの大きい1年になりました。

何が大きいインパクトかと言うと、大事なものや当たり前と思っていたものを失い、人の温かさに触れ、感謝し、泥臭く自分と向き合うという密度の濃い出来事が続いたことです。

それらのエピソードについて、簡単に振り返り、備忘録も兼ねてここに残したいと思います。

最近、永田って何してるん?大丈夫かな?と関心を持って下さっている方に読んでいただけると幸いです、、笑

1、24歳の概略

24歳の1年の中で起きた変化を簡単にまとめました。7月が誕生日なので、7月起点でまとめています。

■10月:
 ・東京から地元の大阪に転勤
 ・転勤直後に東京の友人を亡くす
■11月:
 ・会社を辞めることを決意する
■2月:
 ・自身初の設計案件を引渡し
■3月:
 ・東京のコンサル会社に転職
 ・かなりの過酷労働をする
■4月:
 ・転職先の内定を取り消される
 ・給与不払いに遭い、経済的に困り始める
■5月:
 ・内定獲得のため雑用をひたすらこなす
■6月:
 ・退職交渉を終え、無職になる
 ・祖父を亡くす
 ・実家に帰るか東京で転職するか悩む
■7月:
 ・日雇いで解体の仕事を始める
 ・東京で転職活動を開始する
 ・宅建の資格勉強を始める
 ・25歳になる
■8月:
 ・次の転職先が決まる

ざっくりまとめると以上の出来事、変化がありました。転勤に転職、そして内定取り消し。過酷労働をしたと思えば、給与不払い。親しい友人と祖父を亡くし、職を失い、貯金を失い、自信を失いました。

また、これまで知人や友人含め近しい人を亡くしたことがなく、初めての葬式、告別式に参加し、人を亡くす辛さを経験しました。

失ってばかりですけど、その分学びも多い年になりました。

2、失ったもの

仕事に貯金、親しい人、自信、等々たくさん失いました。
今回は、仕事と人の2つのテーマに絞って書いていこうと思います。

そして、最後の章で失った代わりに得たものという内容で締めようと思います。
※エピソード部分は少し長いので、サッと目を通す程度で良いかと思います、、。

その①:仕事について

12月に転職を決め、3月から小さなまちづくりや都市計画のコンサルティング会社に正社員第一号として転職しました。
知人であった方が、社員を初めて雇おうとしていて声をかけていただきました。社長1人と個人事業主のお手伝いの方のみの会社であったので、かなり小さい会社です。

何度か話すうちに、ぜひ社員として迎えたいと言われ内定をもらいました。
しかし、入社後まさかこんなに泥沼になるとは思ってもいませんでした。

少し長くなるので、簡単に言うと、、

・自分の実力不足と判断の甘さがあった。
・社長の言うことが全て正しく、自分が間違っているという思考に陥り、
 アイデンティティと自信を失くした。
・内定取消に遭い、採用試験を受けようとしたが我に帰り、選考を辞退した。

こんな風にまとめれるかなと思います。
経緯については以下にズラっとまとめるので、読んでみて下さい。

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<内定取消に関するエピソード>

入社時期は、書籍を読むなど勉強と雇用保険の手当をもらってから入社したいと伝え、初めはアルバイト入社し、5月に正社員となる手筈でした。

新しい風を取り入れたいという社長の想いに応えるため、前職を辞めて東京に戻り、力をつけようと必死のパッチで仕事に取り組みましたが、慣れない仕事に時間もかかり、たくさんミスをし、怒られる日々でした。

この頃はMr.Childrenの「ランニング・ハイ」の1番の歌詞を自分に重ねて、折れそうな気持ちを奮い立たせていました。
良い曲なのでぜひ、聴いてみて下さい笑

初めは、担当業務を覚えるのに必死でした。一通りの流れを覚え、経験した後に、非効率な業務の改善を上申しましたが、「言われた通りに全てやれ」と跳ね返され、深夜残業と休日出勤が続き、ストレスを感じ始めました。

新しい風を取り入れると言いながら、アイデアや業務改善の上申、個人的感想は全て却下されました。社長から「君は俺の分身として、業務をしているのだから全て俺のやり方に従い、言われたことだけをやれ。」と言われ、アイデンティティを失くし、怒られる度に自分を殺して、自分の考えが間違っているんだと思い込むようになりました。

3月の報告書作成という多忙な時期に初めて取り組んだ業務でミスを重ね、寝不足が続き、徹夜も重なり、ひたすら人間性のところから自分を否定され、一切の自信を失くしました。

そして、4月になって新型コロナの影響で完全在宅となりました。在宅となり、睡眠時間が確保できるようになり、連日続いていた鈍い頭痛も治り、少しづつ体調が良くなりました。

しかし、4月中旬になり5月からの正社員契約を間近に控えた頃に事件が起きました。

突如社長から内定取消のメールがポンっと入ったのです。

『改めて採用試験をする/社員として入社したいなら書類提出の上選考を受けろ/コネによる裏口入社なんてあると思うな/他に志願者がいる』

という旨でした。

当時、何を話しかけても威圧的な態度で対応されていた私は自信を失くしていたので「あっ、とうとうクビになったんだな。」と思いました。
入社前に「正社員は私以外にしばらく採らない予定なので、業務量が多いかもしれないが、頑張って。」と言われていたので、他の志願者がいるということは内定取消であることをより明確にしました。

しかし、意を決して周囲の反対を押し切り会社を辞め、地元大阪から東京に戻った私は「こんなところで挫折できない!」と思い、選考を受ける旨を伝えました。

ポートフォリオ等、必要書類の作成は業務時間外として作成しろとのことなので、夜な夜な1週間で作成しました。在宅での徹夜は辛かったです。

そして提出後1週間ほど経った4月末頃、、

「選考面接については、二次面接まで行うが新型コロナの影響で選考が通っても5月入社とはならないかもしれない。その期間は4月同様こちらが仕事を依頼しない限り、給与は支払わない。」

とメールが入りました。

しかし、この頃になり睡眠も取れるようになったので、ふと「これっておかしいんじゃないか」と気づき、社長への不信感が溢れました。

4月は在宅になり、私が担当だった業務が新型コロナの影響で激減しました。担当となる業務を専任で頼むために、正社員を採用した背景があるので、それ以外の業務はほとんど任されていませんでした。そのため社長から仕事を振られない限り、あまりすることがない日々でした。

与えられる仕事は突然、議事録フォーマットと2〜3時間ほどの会議の録音データが送られてきて、「先方に提出のため明日午前までに議事録を作れ。5時間分の時給(最低賃金)を支払う。」といった単純作業ばかりでした。新年度の新プロジェクト等が始まる中、それらに関する仕事や共有は一切なく、内定取消が本気だと確信しました。

全く経緯や地域性を知らない再開発に関する会議の話を何度も聞き直し、文字起こしをして、まとめるのですがぶっ通しで約5〜6時間はかかりました。提出しても、「修正点が多くて提出が間に合わず、先方に怒られました。ちゃんとして下さい。」と雑に扱われ、ひたすらに辛い想いをしました。

4、5月は在宅で、ほとんど仕事もなく、休業手当もなく、給与も振られた仕事の最低賃金分しかもらえませんでした。会社的に私が専任で担当予定だった業務がほとんどなくなり、経営が厳しいのかもしれません。しかし、社会保険や国民健康保険などの支払いが発生し、雇用保険の手当ももらえないので、私は経済的に苦しい思いをすることになりました。貯金が尽き、親に泣く泣く仕送りをもらい、食費は月1500円で抑える生活を始めました。

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↑1食約150円の手作りうどん。
 晩御飯はうどん、朝昼は食パンという生活を約3ヶ月続けた。

積もり積もった不信感から、社長に選考を辞退する連絡をしました。しかし、別の志願者が辞退したのか、選考を辞退させないと返事が来ました。「辞めるなら折衷案として、先方との契約もあるので来年の3月まで契約社員として働いてから辞めてくれ。」と言われ、話が支離滅裂でさすがに閉口しました。

約1ヶ月ぶりに、社長と直接会って話しましたが、コンサルにしては、論理や常識がなく、何が本当で嘘か分からないやり取りに呆れ、「こんな人を信用して、意を決して転職してしまったのか。」と言葉を失いました。

社長の要望は全て断り、退職しました。
そして、仕事を失いました。

その②:人について

24歳になり、初めて友人と祖父を亡くしました。亡くなった友人も祖父も建築の職人で、本当に男らしく友情を惜しみなく注いでくれました。そして、堂々としていました。

葬式、告別式に参加した私は、「人は死ぬ時は本当にあっけなく死んでしまうんだな。」と感じたことをはっきりと覚えています。

死を目の当たりにした私は、「自分の人生の成功や価値は他人が決めるものではなく、自分がどれだけ満足したかということなんだ。」と思いました。

満足して死ぬということは、必死で"今"を生きていないと難しいんだなと思いました。
あの時こうしておけばよかったという後悔など、過去に囚われて生きているとそれは絶対叶えられない。自分の人生ではなく、他人の人生の一部を生きている時も同様。

そして、死んだ後も何か功績を残せるとしたら「どれだけ、人の役に立ったか」ということなのだと思いました。人の役に立ち、自分に嘘をつかず、どれだけ必死に生きるか。そのことをバラバラになった祖父の遺骨を見て思いました。

前章と同様にエピソードは以下にズラっと書いています。良かったら読んでみて下さい。(書きながら涙が出ました、、。)

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<友人を亡くしたエピソード>

10月に亡くなった東京の友人は、電気工事の職人で、仕事で繋がりました。
50歳でしたが、とても謙虚で好奇心旺盛で、44歳の時にバリ島に語学留学に行くなど行動力がある方でした。

釣りが大好きな彼は私に友人を連れて、海釣りに連れて行ってあげると言い、道具一式を貸してくれました。

良いことばかりしてくれる彼は、純粋に「釣り好きな友達を増やしたいから。」という目的でとても良くしてくれて、本当に器の大きい人だなと思いました。

東京を去る最後の日に、海釣りに誘ってくれました。船の上で、青春時代の話をしたり楽しかったです。

前回6キロ後半のブリを釣り上げた私はまた好調でカツオ4匹を釣り上げました。その後、釣りたての魚を捌いてくれて、とても美味しい料理を頂きました。
間違いなく、カツオ史上最高の美味でした。

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↑釣りたてのカツオの刺身
 釣った直後に血抜きをしたため、身が絶品!

別れ際に、「せっかくできた、東京の釣り友達がいなくなるのは寂しいけど大阪に戻っても頑張ってな。いつでもまた釣り行こう!」と言ってくれて、本当に嬉しかったです。

そして、新たな気持ちを胸に大阪に帰ってから、1週間ほどして彼は突如脳内出血で亡くなってしまいました。
「ついこないだ一緒に釣りに行ったのに!」という驚きと悲しさに溢れ、初めての人の死を受け入れるのが辛かったです。大阪に行った自分を少し責めました。

告別式で親御さんが「あいつは、自分勝手なやつで、やりたいことばかり優先して、皆さんに迷惑かけて、、。でも彼は幸せだったと思います。」と、どこか嬉しそうに仰っていて、自分らしく真っ当に、真剣に生きていた彼を誇りに思いました。

親御さんの言う通り、誰かの言う通り生きていたとしたら、こんなことを言わなかったでしょう。自分らしく生きて、幸せだったんなら良かったよ。という温かいメッセージでした。

その時に私は、「彼のように生きたい。」と湧き上がるような想いに駆られました。
それが、転職を決意した理由の1つにもなっています。

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<祖父を亡くしたエピソード>

祖父は左官職人で、とても謙虚で男らしい人でした。
実家から車で30分ほどの所に住んでいたので、小さい頃からよく遊んでもらいました。

毎年年末は祖父の家でTV番組の「ガキ使」を観て、年越しをして近所の神社に初詣に行くことが慣例行事となっていました。それが"当たり前"の日常でした。

しかし、祖父は3年ほど前から病気になり、入退院を繰り返すようになり、身体は弱り始め、去年の年末はとても痩せ細っていました。気丈に振る舞っていましたが祖父の痩せ細っていた姿を見るのは辛かったです。

そして、7月下旬に母から祖父の体調が悪く入院をしたと連絡があり、お見舞いに行こうとしましたが、すぐに元気になり退院したとのことでした。新型コロナの第二波もあり、東京からウィルスを持ち帰ってもいけないので、帰省は辞めておこうと決めました。
しかし、そのすぐ後に祖父が亡くなったと一報が入りました。

「あの時、帰省してお見舞いに行っていたら、、、」

なんて考えたりしました。
昔、祖父がガッチリとした手で私の手を握り、「たくましく生きるんやで」と言われたことを思い出し、奮い立たせました。

お通夜の時、従兄弟と家族と一緒に過ごし、久しぶりに温かい気持ちになりました。
そして、少し霊感があるからか、不思議な現象もありました、、笑
「お腹が減った、プレーンのドーナツを食べたい。」とメッセージをくれた祖父に深夜コンビニでドーナツを買って贈りました。

お腹いっぱいになって、安らかに眠ってほしいです。

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3、失った代わりに得たもの

職を失ってからは、雇用保険の手当と住居確保給付金、社会保険等の減免に頼り、日雇いで1人親方となり、解体工事現場で働きました。

失った代わりに得たものとしては、大きくは以下の3つかなと思います。

①人の役に立てる喜びを身に染みて感じた
②困ってる人に声をかけることにためらいを感じなくなった
③自己認識がしやすくなった

①〜③のそれぞれについて、エピソードをまとめました。
以下、ずらっと読んでもらえたらと思います。

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<①のエピソード>

解体現場で働くようになり、解体職人として、仕事をもらう時もあれば、いわゆる「雑工」というゴミ拾いやガラ集めだけを行う仕事もありました。
雑工は職人の中でも専門性が低く、地位が低いため現場で他の職人に「雑工がウヨウヨしてやがるー!笑」なんて罵られることもありました。

歌舞伎町のテナントビルの内装や、RC造住宅の直貼フローリング剥がし、小学校のコンクリート斫りなど色々な現場を経験しました。しかし、ある日雑工として行った仕事先で仕事のやりがいをはっきり確認することができました。

埼玉の地元の小さな工務店のお手伝いをしました。倉庫に保管している海外から取り寄せた家具を販売会社の方が確認に来るため、家具の包装を撤去するといった仕事でした。ソファー等が入った大きな木製の箱をバラし、ゴミをまとめるといった簡単な仕事でした。

検査を終えて、清掃を終えた後に工務店の方から「今日は本当に助かったよ。テキパキ動いてくれて早く終われたし、また機会あればお願いします。」と言われました。
この時、「あっ人の役に立てるって本当に嬉しいな。」と感じました。
他の現場では罵られることもある雑工なのに、休み時間には毎回ジュースを買っていただき、感謝されるなんて、とも思いました。コンサル会社で仕事していた時は、誰のための仕事をしていたか分からなかったし、無職になり、仕事がない時は人の役に立つことが難しかったので、人の役に立てることがこんなに嬉しいのだと身が震えるような経験をしました。

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<②のエピソード>

自分が無職になり、転職前に思い描いていたようにいかず、生活も明日のことを考えることで精一杯の中、困っている人に声をかけたり、助けたりすることが普通になりました。(皆さんは普通かもしれませんが、私には普通ではありませんでした。)

夕方の河川敷でうずくまっている少年に声かけたり、コンビニのプリンターの使い方が分からないおばあちゃんに使い方を教えたり、、。
これまでは、正直「どこか偽善者なのではないか」とか、「自分がやらなくても、誰かが助けるだろう」という心理が働き、人助けにためらいがありました。しかし、辛いことを経験して困っている人の気持ちが分かるようになり、「いや、普通に助けた方がいいやん。」と思えるようになりました。

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↑近所の江戸川河川敷
 ランニングをしたり、黄昏たりした。
 うずくまっている少年に声をかけたのもこの場所

日本人は知人や友人などの親しい人やお客様にはとても親切だけれども、他人にはとても冷たいと言われています。



他人が困っている時に、できるだけの範囲でも良いから助けようとする心意気を失っていた私はこの経験でその心意気を少し取り戻すことができました。

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<③のエピソード>

無職になり、新型コロナの影響で家に篭るようになってから"自己認識"が薄くなりました。簡単に言うと、「自分って何のために生きてるんだろう。」という感覚です。仕事をしない分、人の役に立つことが難しい状況で自分の生きる価値は何なのかと考えていました。
しかし、無職であっても人の役に立つことはできるし、自分を認識する材料は仕事以外に十分あるのだと分かってから気がとても楽になりました。

逆に仕事でしか、自己認識できない場合、人生における幸福度はどうなのかと怖くなりました。リタイアした男性が引きこもりになったり、鬱になるというものと繋がっています。
今を生きる人たちは仕事だけではなく、「働き方<暮らし方<生き方」を意識して、自分で幸せを定義しないといけないということが言われています。他人の人生を生きるなというやつですね。

4、まとめ

ここまで、長い文章を読んでいただいてありがとうございました。
しかし、この人間臭く、泥臭い感情をきちんと文章にしたかったので少し細かく書いてしまいました。

Mr.Childrenの「one two three」の歌詞も身に染みました。歌詞中にある「ビデオに撮った、『ショーシャンクの空に』観てからは...」という部分を聴いて、「ショーシャンクの空に」を観て、「俺もこんなもんやない、、!」と奮い立たせたり。

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↑映画:「ショーシャンクの空に」
 どんな状況でも希望を捨ててはいけないと教えてくれる。
 「諦めたらそこで試合終了ですよ。」とも繋がる。

失ってみて、初めて大切なことがわかるとよく言いますが、24歳でその経験ができたことは勉強でもあり、同時に自身の未熟さも思い知りました。

けれども、本当によくしてくれた両親と友人、先輩方に感謝し、この感謝を胸に25歳を歩んでいきたいです。

仕事を辞め、無職になってから両親から「実家に帰ってきて、家業である不動産屋を手伝ってくれ。」と言われていましたが、一度地元を出た分、東京で足掻けるだけ、足掻いてみようと決めました。東京に残り、転職活動が上手くいかなければ地元大阪に帰ろうとしていましたが、なんとか東京で就職先が決まり、幸先の良い25歳のスタートが切れました。次の仕事については、入社して業務が始まってから更新したいと思います。

底を見たこれからは全てが上昇!巻き返し。
必死のパッチで頑張ります!


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