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まがったキュウリ-鈴木俊隆の生涯と禅の教え

Crooked Cucumber:The Life and Zen Teaching of Shunryu Suzuki』David Chadwick著の邦訳。

500頁近く、しかも2段組みという大部なものだが面白く・興味深くて一読してすぐまた読み返した。
冒頭、著者がこの本を書こうと主人公の未亡人“奥さん”を訪ねるシーンからして惹き込まれる(まるで映画のプロローグのようだ)。

1959年(昭和34年)アメリカに渡り亡くなるまでの12年、かの地で坐禅を伝えた鈴木俊隆師という僧侶の伝記。
日本ではそれほど知られている存在ではない(講話集2冊とこの本の著者がまとめた逸話集が出版されており、講話集をスティーブ・ジョブズが愛読していたと目が向けられたこともある)が、アメリカでは今もその教えを継ぐ人が数多くいて、当時教え子達がまとめた講話集はかの地でベストセラーとなり20か国以上で翻訳され、欧米では20世紀を代表する精神的指導者の一人とまで言われている。

これを書いてくれた著者のエネルギーに驚く。
鈴木師の教えを受け僧侶となり日本で修行したこともあるとはいえ言語的なことや日米を往復しての取材など並大抵なことではなかったはずだし、教えへの理解や当時の日本の状況(全てでなくとも)などへの観察は今の日本でも中々ないのではと思う。
そして想い。
タイトル(鈴木師の師匠が彼のことを罵るだけでなく言った“へぼキュウリ(東北などで売り物にならないのを言うらしい)”から採られている)もそうなのだろう。
生まれからを時系列に沿って丹念に書き、ところどころに彼の印象的な言葉を配すなどしながらも感情と余分な説明を抑えた描写。
何かしらの想いや救いを求めて来た人への言動が生んだ時にはその人にとって転機だったろうこと、ちょっとしたエピソード(あることで彼が鳥籠の小鳥を放したら猫(この猫も彼に懐いていたらしい)に食べられてしまい悲しんだことが伝聞的に語られるところなど)などと、時には師弟のすれ違いや講話を聞いたある日本人僧侶が当たり前な仏教話だと感じたという話などが同様に語られている。

そのおかげかかえって人々の動きや想いが伝わってきて印象的なシーンが多く、タサハラ(人里を離れ修行に専念する場所の候補地で後に結実された)を訪れる場面や出来上がった講話集が届き皆で開くところなどとても感慨深い(勝手に亡くなった後の出版と思い込んでしまっていたが、講話集(日本版)のあとがきで「私のものでなく教え子達が理解を示したものだ」と言ったという話を思い出した)。

読むうちにこれまで読んでいた講話や逸話の背景、この本の出版社の特集などで表されていた(戦前戦中の非戦を促す行動やあまりに悲しい出来事などを含め)ピースが何かに収束していくような感覚になってきている。

自分にとって数年前から待ち望んでいた本だったがそれでよかったかもしれない。
病気で仕事もできなくなり長いトンネルの中にいるような思いでいて、すがるように抜け出す糸口を求めていた時にいろんなことが重なって出会えた坐禅と人。
その象徴的な1つだったのに病状もあって初めて講話集を読んだ時は何も判らず残念にさえ感じた…
それでも彼の信念、何より何とも言えない優しさ・温かみだけは伝わってきて、それに惹かれて時々講話集と逸話集を読み返してきた(いつしかアーカイブサイトに置かれている動画なども(英語が判らないのに))。
今は病気から救い出してくれたことの大きな1つだと感じている。
「何もかもはバランスを欠いているがそれで全ては調和している」、「何もしていないのも何かをしていること」、「遅すぎることなどない」、「Today is today,not Yesterday,not Tomorrow,Do You Understand !?」などが印象深い言葉。

とは言え100のうち1つすらも判っていない。
もちろん禅の何たるかも。
彼と坐禅と仏教に出会えたことは大きく(毎晩坐ってもいる)、病気のこともかなり違って思えるようになれたのは確かだが仕事を再開できたとは言え病気は続いている。
それを何とかするためとその先に目指していること、それどころか染みついていて本質的と思える小さな自分に日々囚われていてばかりでこれを書いていること自体その1つでもあるかもしれない。
“放下著”や“放せば手に満てり”などほんの少しばかり実感を持ててはいてもやはり難しい。

禅マインド ビギナーズ・マインド
-生前に出版された講話集。坐禅の仕方、向き合い方が示されている。「初心者には大きな可能性があるがエキスパートにはほとんどない」という逆転的な言葉にインパクトを受けた人が多いという。
禅マインド ビギナーズ・マインド2
-没後教え子達が編んだ講話集。原題のnot always soは何必(何でさえ必ずしもそうであるとは限らない)という禅語から来ている。
禅は、今ここ-Zen is right Here
-関係者がそれぞれ印象的なシーン(思い出)を語った逸話集。短文構成ですっと判るのもあれば禅問答のようなものもある。
そしてこのまがったキュウリ
-装丁にも想いが込められていて、収められた写真もとてもいい(特にカバーと眼鏡をかけている姿が好き)。購入しすぐブックカバーをかけていて気づかずにいたが、読み終えてそれと本体カバーを外した表紙にこちらに向かって坐ってお辞儀している写真があってそれもちょっとユニークに感じている。

きっと彼は「本はもういいから坐りなさい」と言うだろうと思う。
すべきは坐禅、“今”を丁寧に・大切にしていくこと。
それでもこんな自分はやはりこれからも読み返すだろう。「それでどうですか」、「今ここにいますか」などの声を感じ、坐り続け、いつか得ようとすることなく坐るために。

余談だが、彼の成果は当時のアメリカの“時代(ベトナム戦争やカウンターカルチャーなど)”によるところが大きいとも言われる。
確かに今より情報や人種交流の限られていた当時それらの背景や彼が行く前から高まっていた禅を含む精神的なことへの関心、受け手の異なる文化・人種への想い、英語力などもあっただろう。
前述した日本人僧侶が普通の講話だと感じたという話もその1つかもしれないが本来仏教の教えは普遍的なもの(それがいろいろ難しいのだけど)のはずで、それが日本でさえ浸透されているとは言えないのだからそんな風にまとめるのは少し違うと思う。
既存の価値観などが大きく壊れそれゆえの精神世界への関心の高まり(どこかの国もそうかも)は確かに大きなことだったろうと思うが、何よりも“人”とその教えが大きかったのだと思う。
少なくとも自分にとってはそれだ(この本が原著から20年を経て出版されたこともそうかもしれない)。 
修行や経験からなる人格、時に見せるとても人間的なところ。
救いを含め得られるものは何もない(ましてスピリチュアル的なことやドラスティックに言われる“悟り”など)が、何かは(全てが)“ある”という教え。
それなのに日米で彼に親しんだ多くの人々。それは彼と教え子達が設立し今も続く禅センターとこの本の著者など関係者によるアーカイブサイトを開くだけでも伝わってくる。
収録された数多くの講話や各々が語る話(英語が判らなくて残念…)、日本でのものまで収集した写真など。
初めてこのサイトの写真の数々を見た時、『ニュー・シネマ・パラダイス』のラストシーンで感情が溢れたのと同じような感覚になったのを覚えている。


著者とそれぞれ鈴木師と縁の深い邦訳の浅岡氏と監訳の講話集2の訳者でもある藤田一照師、講話集1の訳者の松永氏、出版に関わった方々に本当に感謝しています。
どうもありがとうございます。


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