変わってしまうもの

ごきげんよう、仮想住人928号です。

時間が経てば環境は変わるものですし、自分も変化をしていくのが普通の事なんだと思います。それは誰にも避けられない事実として降りかかることであり、だからこそ人は昔を懐かしみ、未来に希望を見出すことができるのだと思います。

けれど、それは同時にとても残酷な事実でもあると思います。

今日は私の感じる『変わってしまうもの』について書きたい。

規模が大きくなること

文化が広がる、というのは悪い事ではないのだろうと思う。どんな文化でも人が居てこそ続くものだし、維持していくには新しい人の加入は避けては通れない事実なんだろうと思う。

始まりは3人と極少数の招待した人の集まりだった。

同時に空間に存在するのは5人が最大で、最初と最後はやっぱり3人だった。

その集まりも、今ではコンスタントに20人を超え、多い時には40人。二週に一回開かれているその場は盛況であり、その空気感を求めて人が集まる。人数が増えれば当然人との関わりが多くなり、主催含め『新たに来る人間を迎え入れる』事や『場全体の空気感を軽くしていく』のは大切な事だろう。

だから、込み入った話はしづらくなるし笑顔の仮面を被っていないと場に居る事が許されなくなる。

それでいいのだ。あれは私の為の場ではなく、集まる人達の為の場なのだから。今の在り方は昔と違い、それが得意な人たちの場なのだから。

私の中にある思いを出す場ではないのだから。

人とつながること

つながりが増える。それは選択肢が増える事。人脈というものを使う時には大いに役立つことだろう。

その分増えれば増えるほど、一つに対するリソースは分割され、減少し、重要性が薄れていく。代替の確保と言い換えられる。わたしから見た誰かがそうであるように、誰かから見た私もそうなのだろう。

私という場に集まる人も、増えれば増えるほど個々の認識している情報の差が深まり、結局ここでも大衆化した情報の発信しかできなくなる。その場に居る全員にわかる話以外できない。込み入った話はできなくなる。

仲間外れは寂しいから。私という場に来る人が、それを望まないであろうことを感じるから。

それでも足りなくて、いつも自分の浮かんでいる位置を気にしている。

誰かに酷く近すぎないか。誰か視界から離れている人は居ないか。

ここは、誰のための場なのか…。

想いを言葉に載せる事

最初は想いは存在しない。

時間と、表面的なコミュニケーションを繰り返し、相手を観測し、次第に相手の深層に触れるようになり、それに対して自分も相手との差異や自分の持つ思考情報を相手に渡すことでだんだんと『想い』というものが形成されていくものなのだと思う。

自分の『想い』が相手に伝わるように言葉を選び、届くように願いを込めて、一言一言に大事な想いを載せて紡ぐ。

それが上手く行ってるうちはいい。表層に近い所では自分から相手への期待も薄く、広く許容できるから事故が少ない。

けれど、深層が増すほどにその真意が伝わらない、すれ違う、正しく伝えたくて色んな手段を取りたい。けれど、伝える機会が失われていく。

何より、自分の想いを伝える機会が減る中で他にどうしようもないくらい限界に来てる時に、相手の言葉を信じて必死に勇気を振り絞って出した言葉がスルーされてしまうと、それ以上はもう怖くて今まで出来ていた軽い思いを載せる事すらできなくなってしまう。

そうして段々とずれが大きくなって、マイクのスイッチを入れることが怖くなるのだ。

自分

そうして、今まで出来てきたことが出来なくなって

自分の中の想いは変わらなくても、行動は変わってしまう。

伝わらない想いとは裏腹に、外から見た私は変わってしまう。

変えたくないのに、伝わらない恐怖に、伝わらなかった事実に傷ついて、相手を信じることが出来なくなって。

自分自身が変わってしまう。


ただただ、物言わぬ置物になっていく。

言葉を選べなくなる。

想いが逆に相手を傷つける事しかできなくなる。

人を拒絶する私になってしまう。


人を好きでいないと生きていけない私が、一番人を嫌いになっていく。



日々、人の心を持つ自分を嫌いになっていく。

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