EUREKA.AKERUE
味覚は子供の方が鋭敏で大人になるとだんだん鈍化していくらしい。 しかし、”舌が肥えている”という表現があるように、一般には大人になるに連れてより複雑な味わいがわかるようになると言われる。ではなぜ、舌の感覚機能は落ちてゆくのに、味わいの知覚はブラッシュアップされていくのか。 それは食べ物を食べた時に、口に入れた食べ物その物の味を感じるだけでなく、食べ物の見た目、香り、味、食事環境などによってトリガーされた記憶を一緒に再体験しているからだ。つまり、私たちが味覚であると感じているも
社会の構造を変容させるには啓蒙という手段は効果が薄い。インフルエンサーのようなものによって集団の意思、方向性が変わるという。 現代では、プラットフォーマーによりシステムが改定されていくことによって、公的に行なってきたハード面からの構造変容とは比べものにならない速度で社会に影響を与えている。
人は自分自身を見ることはできず、他者の目に写った自分を見て、自分がどのような人間かを認識する。 これは、学生の時に先生に聞いたのか、本で読んだのか忘れてしまったけれど、つまりアイデンティティの形成は他者との関わりの中でしか生まれないということだ。 コミュニケーションは自己のアイデンティティを知る上で必須となる。 また他者とのコミュニケーションにおいて、うまく伝わらない、隔たりを感じることは、逆説的に自分が独立した個体であるという証でもある。 人は周りの環境とコミュニケーション
漠然と不安を感じることがある。 何かに追い立てられているわけでも、やらなくちゃいけないことがあるわけでもないけれど。 人間って分からないものに、白黒はっきりしないものに一番不安と不快とストレスを感じやすいらしい。 先がみえにくい時はとっても不安になる。そういう時こそ、冷静に情報を集めていきたい。
世の中のほぼ全ての事象はコミュニケーションに帰着する。 経済も恋愛も、音楽も絵画も、生体のシステムだって細胞間のコミュニケーションによって支えられている。 自分が世界の中で固有の存在である限り、他者とのコミュニケーションは必須である。 他者と深く繋がりたい、思想を齟齬なく共有したいと思いながらも、他者との隔たりが侵されることを拒み、同一個体として融合することを拒絶する。 そのジレンマの中でもがくのはとっても苦しいのに、きっとその先に何かあるのだと信じてギリギリのラインでみんな
文化は生き物と同じである。 文化はそれそのものを保存することはできないし、時代、環境に合わせて変化していくものである。 大切なのはその文化の核となる部分、生き物で言えばDNAとなるものを抽出し受け継いでいくことだ。 文化を遺すとは、たとえば特定の着物を保存して博物館に飾ることではなく、その着物に含まれる日本文化的要素を見つけ出し、現代に合う形で再表現されていくことが、文化の継承である。 ただ単に文化的象徴物を保存するだけでは、動物をホルマリン漬けにしているのと同じで、その文化
生物界における個体とは、生物の本体である遺伝子の乗り物であるという考えがある。 そして遺伝子の生存戦略として、生物はその種族の中で、多様化し環境の変化に対応しうるよう進化してきた。それぞれが生き残る術を探して闘い続ける。多様な生き方が生まれるほど、遺伝子は生存の可能性を高めてゆく。 だが個体が単なる乗り物であるなら、その乗り物の存在意義は?遺伝子を繋ぐこと?遺伝子を次世代に繋いだらそれで終わりなのか。 結局のところ個体が生きることそれ自体に意味などない。誰でも自分という個体が
現生物界では不完全に思える生き物。だけど今も地球上で生きている。 他の奴らは分岐して進化していったのに、なんで彼らはまだ生き続けているのか。 きっと世界には競争と淘汰だけでない空間があるのだ。まだ可視化されていない、合理的、論理的に説明できない空間。 その空間に存在できるのは、偶有的かそれとも意図的か。 同じ時、同じ場所にいるようで彼らは私たちと別の空間で生きているのかもしれない。
現代の日本において、家族とは主に父母とその子供、また祖父祖母くらいまでのことを指すことが多い。 だけど今、その家族というコミュニティは新たな形に再構築しても良いのではないか。 子供を育てるのは父母もしくは、祖父母だけではなくもっと広く緩やかな範囲で考えてもいいんじゃないか。 昔の村のように。
常に新しい刺激を求めている。 新しいチャレンジ。 新しい出会い。 新しい発見。 泳いでいないと死んでしまう魚みたいに、何か面白いものはないかずっと探し回っている。 ついこの前までは見栄に囚われて、社会の中での一般的な成功を求めていたけど、そういうしがらみを捨てたら、体が軽くなっていろんなところに行けるようになった。 いろんな考えを押しつけてこられたり、しがらみが追いかけてくることもあるけれど、自分の人生の舵をきるのは自分。その舵を誰かに握らせたくない。 だから自
本当は正しいと思っているのに、それが正しいと言えないって辛い。 ドラマや漫画では、強い相手にも物怖じせず言いたいことを言ってる場面がよくあって、カッコいいな、そんな風になりたいなと思う。 だけど、現実にそれをしようと思うと、自分の周りの人間を敵に回すことになったり、集団から孤立してしまうことになる。 嫌われたくない、一人になりたくないと思うから自分が正しいと思うことを言わずに飲み込んでいる。そうやってぬるぬると隠れている自分がカッコ悪くて情けなくなる。 きっと自分の主
お笑いって楽しい。笑えるって楽しい。 人を笑わせられるって素敵。 漫才は芸術だ。言葉選び、テンポ、動きで一つの漫才が出来上がっている。 詩や歌と似ている。 いろんな漫才の形があるけど、どれにも共通して人を笑わせるという目的を持っている。 そんな芸術は漫才だけだ。 私も芸人になりたい。人を楽しませたい。
今までずっと眠っていたような感覚だ。初めて目が開いたような、覚醒する感覚があった。 今までの自分の思考、行動パターンから逸脱したいという欲求。 ずっと変わりたいと思いながら、殻に閉じこもって卑屈な感情で自分を癒やしていた。 人間が変わるのって大変だ。 歳をとるにつれてさらに、自分も変われる、成長できると思えることが少なくなった。 このまま自分は変わらない。そんな世界はつまらなくて、退屈で息苦しくなる世界だった。 本当に息をすることすらしんどいと感じる。 そこまで