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楽になりたいらしい。2023

忙しなく働き、時間もわからず、ふと見た時計で空腹を知り、500のペットボトルのコーヒーをがぶ飲みしながら、一日たった一回の食事である文鎮みたいな牛丼を、重いから押さえなくてもいけるんだなとスプーンでかっくらっていたら、その虚無が目玉を突ついて涙が出た。

私が土曜日に仕事をするのも、気持ちの良い夕暮れに飲みに出かけなくなったのも、どれもこれも月曜日に向けての準備で、私はいつだって前傾姿勢で地面に手をつき、来たる労働の日々を待っている。

昔、スイミングスクールの先生に言われた。”一日泳がなくなると三日遅れる”という言葉通り、仕事も一日でもサボると復活するのに三日かかる。
私はその怠惰な三日を、悠々と、だがしっかり傷ついて過ごすことになることを知っている。

エアコンの音だけが部屋に響き、リビングに持ち込んだ枕も既にその役割を放棄し固く私の後頭部を殴ってくる。
切り替えようとスウェットから履き替えたワークパンツも、今や組まれたあぐらで肌に馴染み、床に積まれた本を肘で突けば、飛び出した栞が私を笑うのだ。

少しヒカリの見え始める三日目の夜、まだ子供もベッドに入らない時間にこの最悪な三日間を終了させようと寝支度をする、私は再開される労働の日々を想う。明日からはきっときちんとやれるのだと安堵する。

労働の日々、パソコンに向かった私の背に、無数の生活が通り過ぎる。
椅子にかけられた洋服や、壁に掛けられたポスターは、労働をする私には必要のないきらびやかさを秘めている。
それを無視してただひたすらに、四角を指で弾き、終わったタスクに線を引くたびに思うのだ。

労働というのは、自分にとってもっと良いものでないといけないのでは。と。
私にとって労働とは、常に緊張とストレスのオンパレードだ。
貧困マッチョ思想個人事業主の私は仕事が貰えるだけありがたい、いつ無くなるかわからないから出来るだけやらないと、と思いキャパギリギリの仕事の取り方からなかなか抜けられないため、いつだって繁忙期になってしまう。

いつだって、より質の高い労働をするための脳の働きよりも、はやく次のタスクに移らなければ。という焦燥感からくる混乱の方が大きい。

ここ数年の記憶はほとんどないが仕事だけが終わっている。ということもザラでとてもじゃないけど良い労働ができているとは思えない。

この仕事が終わったら、仕事の取り方を改めよう。と何度決意したって、空いたカレンダーを見るとまた、砂に埋められたような息苦しさを覚えるのだ。

凄く、凄く、嬉しいです。ペンを買います。