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コインランドリーとタンゴ

買ったばかりの青いジーンズを縮めてやろうと思い、コインランドリーにきた。

平日の昼間、洗濯機と乾燥機がぎゅうぎゅうに並んだ都会のそれじゃなくて、
東京から何時間か電車に乗った先のベッドタウン、県道沿いによくある広くて明るいコインランドリー。

大小様々な洗濯機では、色とりどりの布がくるくると回っていて、洗濯物を畳む用の大きくて綺麗なテーブルが複数並んでいる。

お客はわたししかおらず、唯一ひとけを感じられるものは、洗濯機と、管理室と書かれた扉の向こうに聞こえる足音と紙をめくる音だけだった。

洗濯機に裏返しにしたジーンズを投げ入れ、100円を何枚か入れスイッチを押す。
窓沿いに等間隔に並んだ椅子に座ると、足の間に冷たい風が通るのを感じた。

持参した湯たんぽをお腹の上で抱え、白い泡と共に踊るジーンズを見ていると、自宅の壁に張り巡らされているポストイット、その中の1枚に何重にもなぞって書いた言葉を思い出した。

『If you’re tangled up Just tango on.』
(足が絡まってもタンゴを続けて。みたいな訳だった気がする。)

思い出すと同時に、わたしはわたしが知らない間に、踊り続けなければならないはずの足を止めてしまっていたことに気づいた。

いつか観た映画『scent of woman』の劇中に出てくるセリフ。

アルパチーノがタンゴを踊る姿がとってもカッコよくて、綺麗で楽しくて優しくて、まるで人生そのものを賛美しているかのような。
本当に素敵な映画の中に出てくる、本当に素敵なセリフ。

この言葉に心を掴まれて、
失敗も、悲しみも、楽しさも、恥ずかしさも、全部身に纏って踊るように生きていけたらと心の底から思っていた。
実際にその後しばらくの間、いろんなことが輝いて見えた気がした。

その矢先、感染症の流行で、不穏な空気や誰かの悲しみが世界を支配した。
画面の先では、怒りや悲しみ、空虚ばかりを見る様になった。
壁に貼った文字達も、見返すこともなく毎日に溶けていった。

わたしはこの悲しい数年間を、踊るためではなく生きる為に費やした。
知らない誰かの悲しみを横目に、自分が生きる術を模索した。

目の前の問題ばかりに気を取られて、今世界で何が起こっているのかを、異常な事態であることを忘れてしまいそうな時すらあった。
その度に、そんな自分にひどく落胆した。

そうしているうちに、欲望や楽しみや快感を感じる瞬間が極端に減っていった。
悲しみや辛さも、表面的なところで感じることはあれど、深く鉛のように心に残ることはなかった。
自分の意図しないところで、それらを無視しているかのようだった。
そして、たまに感情が生まれた時、その後には必ず正体のわからないモヤモヤが襲った。

ここ数年間、その襲ってくるモヤモヤすらも言葉に表すことさえ難しくなっていた。
まるで脳を煙が覆い、欲している言葉や感情を隠している様だった。


どんな時に、大きく心が揺らいでいただろう。

そもそもわたしは今、快感を欲しているのだろうか。
楽しくて笑った時の口元の痛みを、欲望に従う時の興奮を、本当に欲しているのだろうか。

最後に喉が痛くなるくらい泣いたのはいつだっただろうか。引きちぎれるほど腕を振り回して、怒りを表現してしまいたくなることはあっただろうか。

探し出すことすら拒まれている。
恐ろしく、でも、それすらも深く心に突き刺さっているように感じない。

いろんなことを忘れているような気がした。
楽しかったことも辛かったことも、ぜんぶ煙の向こうにある。

正直なことを言うと、わたしはここ数年、物が書けなくなっていた。
書きたいとは思っていても、何も浮かんでこなかった。
以前は何かを書いて昇華して、それで毎日を過ごしてきたのに、その何かを思い浮かべることさえできなくなっていた。

それは本当に、なんとも言えないものだった。空虚とも、悔しさとも違う。
不気味に明るいプールの底で、水に包まれる心地よさを感じながらも椅子に繋がれているような。
上を見たくても、動きたくても動けないような、そんなものだった。


そして、今まで当たり前の様に溢れていた感情を、そこから生まれる体の反応を、強く欲していることに気づいた。

笑いすぎて苦しくなり、恥ずかしさを払うために首を振り、怒りを抑えきれずに頭を掻きむしり、悔しさを堪えるために唇を噛みたくなった。

わたしは、なにかに引きちぎられた心を紡ぐ為に、また踊り出さなければならない。
生きるために生きるのではなく、踊る為に生きたい。

頭の中の煙を追い払ってしまえるように、また踊り始めなければならない。
たとえこれから、足がもつれても踊り続けられるように、壁に貼った文字をもう決して忘れないように。

新しいジーンズを買った。
まずは小さな欲望を叶えるために。

華麗に踊れるまでの道のりは長そうだけど、

だだっ広いただのコインランドリーで、祈るように、ジーンズと泡のダンスを見ている。

凄く、凄く、嬉しいです。ペンを買います。