見出し画像

ニューヨークに行った

ニューヨークに行った。

生暖かい空気が滞留する地下鉄の階段を登り、街に顔を出せば、クラクションの音と爆音で流れる流行りの音楽が交差する。
無数のタクシーが路肩に鎮座し、その中で運転手が待機に疲れた腰を捻り、束の間の休息をとる。
蛍光板付きのベストを着たどこかのスタッフがタイヤのついたゴミ箱とともに街を清掃し、警察は止めることのできないサイレンを鳴らす。

観光地と世界の最先端だと思っていたその街は、働く街だった。

列車の中には切符を切る鉄道員、ホテルのドアの前に立つセキュリティ、ドアマン。
街中はもちろん、ガラス越しから確認できるほとんどの建物には、昼夜問わず働く人がいる。

お金や最先端の物事が渦巻く街なはずなのに、システマチックなことがほとんどなく、24時間仕事をしていたのが生身の人間である事が印象深かった。

今日の日本は比較的人口の多い東京ですらも、沢山のことが自動化され、人間の必要な仕事が減ってきている。
電車もホテルもスーパーも、あらゆることが無人化されつつある。
人がいること、いないことを改めて記載するほどに、人という存在を知らしめる施設があるくらいだ。

でもここでは、大都市ニューヨークでは、自動化されているところなんて見てきた中では本当に少なく、生活する人のための仕事、つまりは人が生きるための仕事。というのが沢山あった。どの施設にも当たり前のように人がいて、何をするにも人を介す必要があった。

事細かに割り振られたタスクに、そのタスクを行う役割に就いた人々。
治安などの観点から存続せざるを得ない仕事もあれど、沢山の役割と仕事があるようだった。

滞在したホテルのフロントでは、深夜にもかかわらず10人ほどのスタッフがそれぞれの役割を全うしていた。

そして労働する彼らは、自意識を持った自らの生活の一片に労働がある。というのを保っているように見えた。

空港の職員は到着した人を誘導した後、みんなで待合席に座って談笑していたし、駅にいた警察はNYPDと書かれたボックスの中で携帯をいじりながらコーヒーを飲んでいた。

彼らは稼ぐ傍ら、誰かと電話をしたり、同僚と談笑したり、客の対応をストップして別の仕事をしていた、彼らは労働を含む自らのタスクを、その時々で順序を定めながら進めている様に思えた。(もちろん対応もしてもらえるし、丁寧に対応してくれる人もいる)

滞在しているホテルのレビューを見ると、これを怠惰だと指摘する日本人もいるようだったが、私はそれを決して怠惰だとは思いたくなかった。

日本とのギャップに気圧されたのかもしれない、しかし私はこれこそが正しい労働の仕方なのではないかと思った。
やるべきことをやるべき時に全うする。
そこにはきっと過剰なサービスは必要ないし、やることがない時にやることを探す必要もないのだ。
拘束された時間の中で、常に会社のために働こうとするのではなく、あくまでも自分の人生の中で労働をする。

これがそこに生きる彼らの生活で、私のみたひと時だった。
ホテルだろうがなんだろうが、海外だろうが日本だろうが、どんな人も自身や自身が大切にしたいことに意識を向けるべきで、他人はその積み上げられて行く時間や人生を通り過ぎただけの客人に過ぎないのだ。

自動化によるタスクの軽量化。
この点に置いては、ニューヨークより日本の田舎の方が進んで行われているように感じたくらいだ。

しかしこの街では、無人化・自動化をすると本当に沢山の人の仕事を奪うことになるのだろう。

この細分化された役割が、彼らの生活を助け、生活の中で労働する余力を生み出しているのではないか。

日本と比較するのもなんだが、日本人こそそういった意識が必要なのではないだろうか。
労働をしている最中にも労働に意識を縛られることなくに生き、それ以上のことが求められるのであればそれ相応の対価を求める。
物価高騰に上る税率、今この日本に必要なのは、ある種の個人的労働革命なのかも知れない。

そしてそんなニューヨークで働いてみたいと強気な私が脳に語りかけた。
私もこの街でやっていけるのだろうか、いつか試してみたいものだ。できるかな。


昼間のような光を発するネオン、ベンチに座って食事を楽しむ家族、全貌が見えない高層ビルの横には、水捌けの悪い道端にたくさんの使用済みの注射器と共に転がる人。

吸い終わったタバコを灰皿に放り込むと、爪の伸び切った手が横からニョキっと顔を出し、その吸い殻を回収して行く。
目の前を通るリムジン、クラクションを鳴らす高級車。
その向こうの通りには24時間営業のハラール屋台、今日何回目かのシフト交代を経た店員が敷かれた布の上で礼拝をしている傍らで、ゴミ箱からアルミ缶を回収していた人がどこかを見ながら何かをつぶやき十字架をきる。
その人は足元に捨てられていた無数の高級ブランドの紙袋には見向きもしない。

ビルの反射と太陽が照らす交差点の道路脇から地下鉄の階段を降り、注射器と寝る人の横をすり抜け、向かったdowntown行きのホームでは、フラフラと歩いていた人がいきなり奇声をあげる。
逃げるように移動を続けると、砂漠のオアシスの様にホームの真ん中に現れる人の群れ。

群れと共に数分遅れできた電車に乗り込むと、足がすくんでいることに気づく。地上に上がって人が沢山いるところに来ても、しばらくその緊張が解けることはなかった。

100年に一度と言われた豪雨の中、ホテルでニュース番組を見る。
数十年前、ラッパーを銃殺した犯人が逮捕され、ニューヨーク市内で少なくとも3人と1匹の犬が銃で亡くなった。
全て私が滞在していた5日間の間に起こったことだ。

銃・薬物・宗教・広がりすぎた格差。これらが身近に存在している世界があることを、私は確かに知っていた。しかし私の人生のなかに直に存在してこなかった出来事たちが確かにそこにあって、私の中に流れ込んできた。

分かっていただけで何にも知らなかった。
もはやまだ片鱗の片鱗すらも知れていないのだろう。
たった数日のことだった。


沢山の音がするがどこか静かで、大きな窓から差し込んだ光が動く歩道を照らす。
見慣れた文字の指示通りに進み、微動だにせず立つスーツ姿の職員にパスポートを差し出すとゲートが開く。
安堵と疲労の中、少しずつ緊張が解けてくる。
渡航前、思い描いていたそれとは全く違った”ニューヨーク”を体感してきたことを改めて感じる。

思い出すだけで今も心臓が少し変になる。

凄く、凄く、嬉しいです。ペンを買います。