ドラマ版『アンサングシンデレラ』に思うこと

 原作もののドラマ化全般に言えることだが、「なぜ設定を変更するのか」という疑問。
 それはおそらく、用意したキャストが原作と合わなかったりするためなのだろう。「ドラマ化のためにキャストを用意する」のは現実的に不可能で、「キャストのために適当な原作を見繕う」というのが実情に近い気がする。
 けれど、それは「原作を使い捨てている」ことに外ならず、原作者に対してあまりに失礼なことではないかと思う。

 よく、「実写化されることによって、原作の知名度も上がるし宣伝になる」と言う人がいるが、近年ではほとんどが原作付きであり、原作の漫画や小説を積極的に紹介することもなくなった。昔は、ドラマの終わりに原作本のプレゼント告知なんかがあったものだが、近年のドラマでそうした光景はほとんど見たことがない(もしかすると番組HPなどで告知しているのかも知れないが、ネットというのは興味があるところだけをクリックするものなので、たとえHPに原作のバナー広告が貼ってあったとしても、クリックする人はほとんどいないと思われる)。

 ここで問題にしたいのは、そもそもの「原作に忠実に作ることを、なぜしないのか」という点だ。

 前述のとおり、現実的に難しい点は指摘した。けれど、例えば大ヒットとなったドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』は、わりと原作を踏襲して作られていたように思う。

 原作に忠実に作れないなら、ドラマ用のオリジナル脚本を用意すべきだし、既存作品のタイトルやキャラクターを使うべきではないだろう。
 なぜ、こういう事が起きるのか。原作の小説や漫画が話題作であれば、そのネームバリューに乗っかるかたちでの実写化というのは(安易だとは思うが)アリなのだろう。有名作を原作に採れば、成功は約束されたようなもの。スポンサーの支持も得やすい……そういうロジックが成り立つことは理解できる。
 しかし近年では、比較的マイナーな漫画あるいは小説も原作として採り上げられている。それ自体は良いことだと思うが、往々にして「設定変更」されている。

 意地の悪い見方だが、ここに「原作の使い捨て」という疑念が生じる。
 脚本を一から起こすのは、おカネもかかるし「リスクが高い」ことなのかもしれない。そこで「適当に」原作を見つけてきて、「アレンジ」という名の改変を施し、そこにわずかながらの「作家性」なりを発露して、「ぼくのかんがえる さいきょうの『〇〇』」みたいに言い切っている。
 聞こえはいいが、その行為は例えるなら
 味の良い蕎麦屋の出前を取って、そこにケチャップやらマヨネーズやらをぶっかけて「ちょい足し(アレンジ)」し、「おいしいお蕎麦なんだよ!」と言って友人に振る舞うようなものだと思う。
 そのまま出せば良いのに。

 テレビ業界のことは分からないが、例えばドラマがコケた(視聴率が取れなかった)時に、原作ものであれば原作のせいにでき、制作陣や俳優が批判から免れる……という図式があるのだろうか?
 原作がつまらなかった、実写化に向かなかった、などの言い訳が成り立ち、スポンサーに対する申し開きができる……。
 そして、原作がマイナーな作品であればあるほど、原作の存在を視聴者は知らないから、原作(の評判)が棄損されることもない……
 八方丸く収まる、というわけだが、もしもそうだとすれば、ひどい話だ。
 作品と原作者を愚弄している。「使い捨てて」いる。

 なぜ、ドラマオリジナルの脚本で勝負できないのか?
 おそらくだが、テレビ局の「中の人」には相当に「サラリーマン化」した人が多くいて、

 キャストが伝えられる → 適当な原作を探してくる → 当てはめるために「アレンジ」する

 のような、ある種のルーティン(思考停止)が出来上がっているのかな、と思える。
 キャストに合わせたオリジナル脚本を起こせる人も、もはや居ないのかも知れないし、仮にオリジナル脚本でコケた時には、その脚本家は再起不能なまでに信用を失うことになるのかも知れない。
 創作というものに対して不寛容で、文化の未熟さを感じざるを得ない。

 さて、『アンサングシンデレラ』である。
 原作漫画の主人公、葵みどりは2年目の病院勤務薬剤師(作中で3年目に突入する)。そのくらいの年数であれば、一通りの仕事を覚え、日々の業務に追われながらも、「あれ、ガッコ(大学薬学部)で習ったことと違う……」という矛盾にいくつもぶち当たり、もやもや感を抱えながら毎日を送る、というのがおそらく大多数であろうと思う。
 だからこその葛藤や衝突、感動などがあるのであり、それこそが物語の核である。しかもそれが、現実の医療制度における矛盾や、医師と薬剤師の関係性の問題などを炙り出す構図になっていて、非常に上手いと感じる。

 ところが。
 ドラマ版では、葵みどりを「8年目の薬剤師」に設定変更してしまった。この設定変更は、主演の石原さとみの年齢に合わせた結果なのだろう。
 実は病院薬剤師というのは(職場にも拠るだろうが)人材の回転が速く、3~5年くらいで転職してしまうか、勤続20年以上が上層部に留まっているか、の二層化していることが多い。いわゆる「中堅層」がいないのだ。
 8年目ともなれば、その病院では立派に「中堅層」であり、それまで多くの問題にぶつかって、ある程度の解決法や「いなし方」を知っている。良くも悪くも、原作で描かれるような葛藤や衝突は起こさない「器用さ」があるだろう。薬剤部では主任など役職を任されて(「させられている」と呼ぶほうが正しいかもしれない)いるであろう年数だ。

 さらに同僚の瀬野だが、原作では、彼がそれこそ8年目くらいのキャリアであると想像するが、ドラマ版では主人公とあまり年数の違わない人物になってしまった。
 薬剤師というのは知識を要求される職業だ。まだ年数を経ていない若手薬剤師は、自分の「知識が足りていないこと」に潜在的な不安を感じている(少なくとも自分はそうだ)。もちろん、ベテランであっても常に知識のアップデートは必要なのだが、こなしてきた実務の「経験」に裏打ちされた「知識」は強く、年数を経た薬剤師は、それなりに自分の知識に自信を持つことができる。経験の少ない若手薬剤師には、それが無い。
 みどりと瀬野の決定的な違いは、この「経験に裏打ちされた知識」であり、両者は決して「ただの先輩後輩」ではない。

 原作でみどりは、瀬野だけでなく他の先輩薬剤師から、知識「だけではない何か」を学び取っていく。しつこいようだが、8年目であれば逆に若手に「知識だけではない何か」を伝える役割だ。この点で、原作とは決定的に違ったものになる。

 ドラマの制作者がそこまで考えているとは到底思えない。手頃な原作をテキトーに「アレンジ」し、今クールを乗り切れれば、それでおしまい。
「石原さとみと田中圭、人気のキャストで話題性は十分。医療系は視聴率が堅いし、恋愛要素を入れておけば視聴者は喜ぶし、万事解決!」

 そのくらいの意識なのだろう。テレビというのは、基本的に「中学生でも理解できる程度」に作られるのだそうだ。けれど、「分かりやすい」ことと「物語を薄っぺらなものにする」ことは全く違う。複雑な医療制度や、難しい人間模様であっても、それを描き出すことが必要であり、視聴者の心に刺さることになるだろう。しかも往々にして「分かりやすい」物語は、心に残らないものだ。
 結局、『アンサングシンデレラ』が特別なことは何も無く、たくさんの「使い捨てられるドラマ」の一つにしかならないと思う。次クールには、こんなドラマがあったことすら忘れ去られているだろう。

 そう考えると、設定がどうのこうのと言うのは無意味で、気にすることではないのかなとも思える。

 ただ、悲しいし、虚しい。

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