見出し画像

大社会と小社会

管理社会は自由社会を内包しない

 自由社会は管理社会を内包するが、管理社会は自由社会を内包しない。
 その点で言えば、自由社会を大社会、管理社会を小社会と定義付けられる。
 但し、これは純然たる事実としての主張であり、大社会を優れた社会、小社会を劣った社会と直接結び付けるものでは無い。
 では、優劣を決定づけるものは何か。
 それは、両者の許容度の違いである。
 自由社会は共産主義者を許容するが、管理社会は自由主義者を許容しない。
 前者は、思想的には危険人物だとしても、実際に実行、あるいは具体的な計画(刑法等に規定される犯罪行為)に移らない限りはその存在を許容する。
 後者は、実際に行為に移す気がなくても都合の悪い思考をする物を許容せず、その存在の排除を行う。
 その点で、後者は前者に劣っている。
 では、何故劣ると評価するのか。
 それは性悪説を引用したい。

原文:人之性悪 其善者偽也
訳文:本来の人の性質は悪である。それが善になるのは人間の意思で努力することの結果である。
性悪説(荀子)

 人の本性は善ではない。
 本能を際限なく表出させれば当然その結果は悪の行いとなる。
 人は、理性により決断してこそ善なる行いを成せるのだ。
 この事を言い換えれば、積極的で主体的な決断という行為を経てこそ善なる行いが成せるのであり、消極的で客体的な本性(本能と言い換えてもいい)や慣習、命令の実行といった事では善なる行いは成せないと言うことが出来る。
 とはいえ、当然の事として、決断を行えば決まって善なる行いが成せるわけではない。
 本性の発露による決断もあるからだ。
 しかし、私は消極的で客体的な要素の発露によっては、絶対に善なる行いを成せるとは思わない。
 人は、自分の意思に基づいて決断をした時にのみ善なる行いを成せるのだ。

決断とは

 では、決断とは何か。 根本的なところでは無いが、その手続きに焦点を当てたい。
 決断とはつまり、自由な複数の選択肢が与えられた時に、自分の意思に基づいてどちらかを選びとる行為である。
 「自由な複数の選択肢」、これが重要なのである。
 つまり、表向きは複数選択肢が与えられているように見えても、実質的には単一の選択肢しか与えられていないのではいけない。
 ただし、法律を初めとした各種選択肢のメリットデメリットの調整は必要ではある。

単一の理想は唯一絶対?

 そもそもの話として、思想家はよく、単一の理想を持ち出すが、その単一の理想とは何なのか。
 私は、「単一の理想」とは、自由社会における無数の自由な選択肢から自分自身の経験に基づいて取った確率的な結果に過ぎない、と思う。
 故に、管理社会に遷移し、自分の理想のままに社会を動かそうなどという思想は幼いと思う。
 そもそもの「理想」という思想が無数の選択肢から確率的に取った結果的な値に過ぎないのに、それが唯一絶対のものであるかのように盲信するのは危険だ。
 人の数だけ理想がある。
 経験が違えば自ずと理想も変わってくる。
 社会はそういった人たちの集まりだ。
 自分の理想を押し付けて無闇矢鱈にかき乱すような行為は慎むべきだ。

遷移の不可逆性

 自由社会が管理社会に変わるのは比較的容易い。
 しかし、管理社会から自由社会への遷移は甚だ難しいのだ。
 自由社会では矯正される行為も管理社会では非常に難しい。
 私たちはその事をしっかりと認識しなければならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?