芸術論
芸術に勝る文化はない。
だからこそ芸術作品はどれ一つとして壊してはならない。
私はそう考える。
芸術に勝る文化はない。
そう言われて、学術や宗教もあると言う人もあるかもしれない。
実際、芸術と言われて一般に思い浮かべるのは、美術(絵画)、音楽、文学などで、文化はそれだけじゃないだろうという気持ちもあることは理解できる。
しかし、芸術の根底にあるのは、美しいと思う物、心を揺さぶるものを表現するという事ではなかろうか。
それは、学術や宗教にも当てはまるものであり、学術や宗教すらある種芸術と呼べると私は思う。
祈りや探求、それらすべてに通ずる言わば人の感情の核。
一つの法則に収束していけばしていくほど美しい。そう物理学者たちは言うらしい。
幾何学は数学者たちを魅了した。
言葉にも美しさがあり、多岐にわたる語を最も適した形で使うことを美しいという人がある。
美しいと思う倫理が皆に通るように、神を作り上げた。
望ましい事、それを人は美しいと表現した。
芸術に勝る文化はない。
人は美しいという感情を忘れることはできないとさえ思う。
先人たちが残したものの中に私たちは美しいと思えないものもあるかもしれない。
しかし、それを壊してはならないだろう。
人の嗜好は単一ではない。
美しさもそれに違わぬはずだ。
煌びやかなブロンドヘアーを美しいと思う人もあれば、艶のある黒髪を美しいと思う人もある。
かっこよい、綺麗、可愛い。
ワイルドさ、つまりは適度な粗雑さ。相反して徹底的な清潔感を求める人もある。
私たちは私たちを現代人と呼ぶ。現代の規範に照らして美しくないものをみな壊そうという人がある。
決してそこで決断せずに、よく考えてみて欲しい。
過去のものを現代の私たちが美しくないと感じる。
では、現代で美しい(または美しくない)と言われるものが、未来で美しくない(美しい)と言われないという保証は?
私たちがやっていることは?
未来が訪れたとして、現在、現代人である私たちは変わらず現代人だろうか?
過去の過去、昔々となったものが未来で再び賛美されないという謂われはどこに?
我々は現代人であり、過去とは異なるというのなら、過去のものを一方的に破壊する行為こそ慎むべきであろう。
昔々、中国の皇帝は代が変わる度に歴史書を燃やしたらしい。
「今代の皇帝にとって一番都合が良いように」歴史書を書き換えたそうだ。
では、今やっていることは?
それと何が違うというのだろう。
「現代の私たちにとって一番美しいように」芸術品やらを改変する行為。
見て欲しい。
ある人は言うだろう。似ているのは文法だけだと。都合が良いと美しいは意味が違うと。
だが、美しいとは不変だったろうか。
単一だったろうか。
自分たちの観念ひとつで壊すことの愚かさを考えねばならない。
創ることは難しいが壊すことは容易い。
目的や理想に関わらず、壊すことの罪は重いのだ。
人が新たな命を生めるまで少なくとも20年と数カ月、もしくはもう1年。
人がその命を壊すのは速くて一瞬。銃で眉間を撃てば一瞬に等しい速度で絶命する。
文化も同じ。
絶対に壊してはならない。
絶対に。
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