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TABIPPO 旅するように、生きる。   あっぱれと、いう人生。


いつか、おばあちゃんになった時。

皺くちゃになって、ベッドから立ち上がれなくなった時。

一人、人生を駆け抜けていった風を感じて、

「あっぱれ」と、微笑みたい。

だからそんな時が来るまでは、がむしゃらな人間でありたい。

そんなことを、思っていた子供時代があった。

そして、

そんなことを、とうに忘れてしまった自分がいた。

偏差値や肩書きを真っ黒なスーツで包んで、大学に行って、バイトして、

サークル入って、飲み明かす。ゆとり教育最後の忘れ形見の私。

「 “大人になる”って、世の中には、出来ることと出来ないことがあって、それに逆らうバカな奴と、大人しく従う優等生がいるってことを、

知っていくってことらしい。

“大人になる”ってのは、夢に諦めのピリオドを打つことらしいわ。」

そう言って、友人が神妙な顔で、梅酒のグラス越しにため息をつく。


そうなのか。

そうなのか。

私は自分の中で、無邪気な私の片割れが、

寂しそうに手を振るのを感じた。

19歳の私。


音を立てず、しんとした私の心の水たまりに

何かがぽちゃんと降って来た。

それが、旅大学だった。

私の心の中で、ゆっくりと水の波紋が広がった。

私の心の中で、数字や紙屑、現実や諦めに埋もれていた何かに、

そっと灯火が宿るのを感じた。

住所を持たない人がいた。

インドで揉みくちゃになりながら、人間臭く生きる人がいた。

スーツを脱ぎ捨てて、飛行機に、自転車に、カヌーに飛び乗る人がいた。

恋をするように、旅をする人がいた。

夢を見るように、旅をする人がいた。

旅をするように、生きている人がいた。

話を聞くたびに、前のめりになる自分。

目の前の人の人生に触れるたび、鳥肌が立つ自分。

そんな自分に気づいた。

皆がキラキラと教えてくれた。

自分のしたいことと、世の中が求めることの交差点をさがす。

自分の直感が傾いた方に進んで見る。

人生というのは、やったもの勝ちなのだと。

そうなのか。

そうなのか。

私の中の片割れが、嬉しそうに、微笑むのを感じた。


旅大学からの帰り道に

一つ、決めたことがある。

「自分の人生を、好きになっていくこと。」

それが大人になるということなのだ、と

梅酒の盃越しに、言える大人になる。



現実を、肩書きを、数字を見せろと、

そんな世の中かもしれない。

それでも、一歩踏み出してしまえば、あとは自分のコンパスと地図に

従ったもの勝ちなのだ。

一歩踏み出す度胸さえあれば、その勇気さえあれば

あとはやったもの勝ちなのだ。

がむしゃらになったもの勝ちなのだ。

旅大学で得たものが、忘れていた、子供の頃の夢につながっていた。

自分の人生に恋をできる大人になる。

そうしたら、将来

おばあちゃんになった時。

皺くちゃになって、ベッドから立ち上がれなくなった時。

私は、

「あっぱれ」

そう言ってくれるだろう。

そう言って、笑ってくれるだろう。

だから、がむしゃらに生きてみよう。

そんなことを思えた、ひと時だった。


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