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早稲女が21歳で妻になって今日思うこと。

「まだ学生なの?!東京の私大の??え。何してんのこんなとこで!もったいねえなあ!」

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朝起きる。顔を洗う。窓を開けて朝日をいれる。

風が流れて木が揺れる。

卵を溶いて、塩を振る。お砂糖はちょっぴり。

くるくる巻いて卵焼きを作る。

天気予報を見て、今日も暑そうだねと苦笑い。

行ってらっしゃい。行ってきます。

床を磨く。お皿を洗う。洗濯物を干す。

夕飯と明日のお弁当の献立を考える。

家計簿とにらめっこ。自転車を飛ばしてスーパーへ。

家計簿

午後は台所に立ちっぱなし。

夫の帰りを待ちながら、野菜を刻む。

夕暮れがくる。ただいまと夫が帰ってくる。

お風呂を沸かす。おかずを盛る。味噌汁を分ける。

そして夜が更けて、月が出て、また朝が来る。

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言ってしまえば、これの繰り返し。

もちろん、妻になってまだ5ヶ月も経ってないけれど

結婚生活は、この暮らしの繰り返しです。

その繰り返しに見える日々が、今日の私の生き方です。


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ウェディングドレスに身を包んで、たくさんの人に祝福されて、きらびやかな式場を出てから始まるものこそが『暮らし』。

子どもができたら、ここに育児が入り、日々をこなすだけで手いっぱいになるんだろうな、となんとなく想像もつきます。

飛ぶように過ぎ去る毎日に、哲学や理想なんて入り込む隙間もないのかもしれません。

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「もったいなくない?!」「もっと遊びたかったんじゃないの?」

最近、北海道の新しいコミュニティに顔を出してみるたびに、そう言われることが増えました。

私の生い立ちや性格を知っている人ならともかく、年齢と学歴、留学経験や履歴書から判断すると、天狗ではないけれど、そう思うのもわからなくはない。

「頑張って培ってきたもの生かしなよ」「自分にしかできない仕事見つけなよ」「もったいないよ。主婦なんて」「落ち着いちゃうには早すぎない?」「外に出て働きなよ!」

なるほど。確かに。

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私は確かに、9月から早稲田の大学生に戻ります。

専業主婦にも、今のところなりません。

仲間たちの活動や、就活の最前線で頑張っている同期の姿も見ています。

子どもも、授かれるのであればもう少し待ってほしい。

自分が今までにありがたく培うことのできた英語力や、学歴に年齢という手札、経験値も存分に駆使して、働いてもみたい。

みんなが言うように。

でも同時に、妻になって5ヶ月、思うことがあります。


「その『もったいない』というのは

私の人生のどのパーツに向けられているんだろう」

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今、進路に悩んでいる高校生や、就職先を前に途方に暮れている学生。

子育てに必死な女性や、仕事が上手くいかない男性。

一人ぼっちで死期について考える老人。

家から出ることのできない男の子や、友達が作れない女の子。

本当にいろんな人がいて、

その一人一人がそれぞれ選んだ道があります。

その一人一人が掴んだ幸せがあり、その一人一人が抱える苦しみがあります。

そしてその誰もが一度は

「もったいないんじゃない?そんな生き方じゃ」

そう言われたことがあるんだと思います。

洞爺湖2

今まで、進路を考える上で自分の方こそもったいない選択はしたくないと思っていたのですが。

一体人生のどの瞬間を切り取ってもったいないということになるのか、何をしたら経験を生かしていることになるのか

私はこの5ヶ月考えていました。

そして昨日

サクッと人参を切った時に、ん?と腑に落ちたのです。

「全部、生かしてるかも。もったいないほどに全力で」

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小さい頃、泣きながら補助無し自転車に乗れろようになった思い出。

あれがなければ中学校の頃、運動音痴なくせにバレー部に入ろうとは思わなかったでしょう。

バレー部でみんなの足を精一杯引きずり、引退試合も私のミスで終了したにも関わらずやり切った経験。

あれがなければ、無理とわかっていながら無理な高校を推薦受験なんてしなかったでしょう。

推薦入試で案の定ボロボロになって、電車で泣きながらお母さんに寄りかかった思い出。

あれがなければ高校一年生で留学試験を受けてみろうなんて思わなかったでしょう。

留学生が他にいないオールトラリアの田舎町の高校で、友達作るために恥もプライドも一切捨て、めちゃくちゃな英語で喋りかけた苦い記憶。

あれがなければ、日本に帰ってきてから、早稲田に入りたいなんて思わなかったでしょう。

早稲田の

「あなたは行けるところを目指そうよ」そう言われて何もかも勉強に費やした受験期の思い出。

あれがなければ、帰国子女のクラスメイトたちと会話することすらできなかったでしょう。

人間臭く、汗まみれになりながら、学びにも恋愛にもサークルにも飲みにも貪欲な仲間たちの存在。

あれがなければ、アラスカに行っても人生なんとかなるとは思えなかったでしょう。

手

アラスカという人類未踏の地で、人間の生きる力に触れた感触。

あれがなければ、大学を休学して北海道に行こうと、そこで住み込んで度胸をつけようなんて思わなかったでしょう。

北海道十勝の小さな里山で、家族のように受け入れてくれた人々との出逢い。

あれがなければ、今こうして、夫の帰りを待ちながら野菜を刻み、湯を沸かす私の暮らしはなかったでしょう。

ちゃんちゃんこと私

今までの経験、培ってきた生命力、英語力、なけなしのコミュ力、恥ずかしいほどおっきな肯定感や好奇心。

そのどれもを

惜しみなく、全力で、力いっぱい使って、

私は今、「繰り返し」に見える奇跡のような日々を生きてます。

もったいないほど一生懸命に、

私は今、一生愛し抜くと決めた人との今日を生きています。

私が持ち得る何もかもと一緒に

その人の帰りを待ちながら、ご飯を炊いています。

セピアっぽい

繰り返しに見える日々の中にドラマがあり、

あの手この手を使って、明日を生きていくために今日を考え抜く。

今までの人生で得てきた、すべての底力を使って、

もったいないほどに、全力で。

それは、

誰の、どんな人生のあり方においても

言えることではないでしょうか。


これが、早稲女が21歳で妻になって今日思うことです。





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