戊辰戦争の裏事情

戊辰戦争の実態は今の教科書では殆ど教えられません。
昨今のYouTubeでは、明治天皇すり替え説迄流布されている。

その説に依れば、伊藤博文は開国を強く反対していた

孝明天皇を極秘の内に暗殺し、南朝の血族であった

長州藩の武士と据え変えた」と語っている。

その伊藤博文を韓国で暗殺した犯人、

安重根は韓国では英雄として銅像まで建っているが、

そして何と、宮城県北の築館町にも安重根の銅像が建っている。

これはどうした訳だろう、と言う事は、

奥州戊申戦争後の一時期、

奥州越列藩同盟での旗頭的伊達藩にとってはアンチ伊藤博文的風潮があり、

その伊藤博文を暗殺した安重根を英雄視したのだろうと推察する。

因みに、松下村塾の吉田松陰は、

「伊藤博文は使い走りにしか使えない男」と揶揄していたそうだが、

土佐藩脱藩の坂本龍馬や薩摩の西郷隆盛と大久保利光や

佐賀藩の橋本左内など、明治維新を担った有能な武士達は

不思議に殺されている。


安重根は殺害動機を、伊藤博文が「天皇を殺したから」と言っていたそうだ。

処で、奥羽越列藩同盟には、開陽を筆頭に徳川幕府の海軍、

榎本4艦隊と駆逐艦がバックアップする予定で、

江戸での彰義隊全滅から、辛うじて脱出できた

「輪王寺の宮」を5月中には奥州に送り届けさせ、

自身は徳川慶喜の主従を隠居先の静岡迄送り届けてからの

出航だったので当初の予定よりl3ヶ月も遅れた。


全体から見ると、この榎本艦隊の遅れが致命傷になる。
艦隊は台風の直撃で破損や座礁し戦力を減退させ、

北海道に向かった時にも岩手沖で再び、

台風の直撃を受けて、大半の戦艦が損傷してしまう、

この辺に天運の無さを感じる。


奥州越列藩同盟は旧式火縄銃が主力で、

伊達藩の星侚太郎の額兵隊800人の内の

150人のみが近代式連発銃だった。

頼みのロシアからの武器の輸入港であった新潟港の守りも、
名将河井継之助が何と初戦で西郷隆盛に敗れて長岡城を明け渡す。

これで奥羽越連盟は新兵器の輸入の手立てを失う。

兵站を失えば勝てる戦いも負け戦は必須となる。

如何せん、太平の世が長く続き過ぎて優秀な軍師も少なくなっていた事と、

薩長は農民を徴用し、最先端の武器を持たせたのに対し、

奥羽越連盟は急な展開で準備不足と戦略の無さの為に、

連戦連敗の無残な有様に陥っていた。

真田幸村の血を引く、真田喜平太も伊達藩で砲術指南であったが、

際だった武功の記録は残っていない。

寧ろ、勝海舟等と開臨丸で米国に渡った玉虫左太夫や白石城主

片倉小十郎等を中心に戦った方が勝機があったと思う。


長征の薩長軍を攻めるなら、山間部の道の狭いところで挟み撃ちやゲリラ戦法で壊滅できるものを、旧来の平原で対峙した処に根本的作戦ミスがあった。

そして合戦の日が生憎の梅雨の大雨となり火縄銃は全く役に立たないという悲惨な状況だった。それも、諸藩連合軍の為の連絡不足の為、予め決めた

突撃の日が、生憎の土砂降りなのに、諸藩の陣地が離れていた為に中止の連絡も出来ず、予定通りの決行となり、結果は上記の様な惨めな惨状で全滅に近い敗戦を喫する。


その頃、一時は、仙台に凱旋した「輪王寺の宮」も度重なる劣勢を見聞きして観念し、早々と隠居したのが仙台市の北山にある輪王寺である。
奥州越列藩同盟には、九条総督、醍醐副総督と言う公家も参加したが、秋田藩の陰謀で奪われてしまう。

実は、輪王寺の宮は、江戸時代最後の考明天皇の義弟ですから、立派な北朝の流れを組む皇族で、凱旋行列の記録では、かなり、凛々しい面立ちであったと記録されている。

一時期、北東の国に錦の御旗が翻り、奥州越列藩同盟の志気はすこぶる上昇したのです。本来なら、輪王寺の宮は今でも立派な皇位継承権を主張できる後継者でした。

現在の皇室と近い花園天皇への血脈が300年と言われていますが、其れよりももっと近い血脈が「輪王寺の宮」として仙台に存在したのです。

戊辰戦争は、薩摩長州と会津藩主、松平容保が中心に語られますが。

奥州越列藩同盟は、薩摩長州の余りの無態振りに、特使の吉良修蔵を阿武隈の河原で惨殺してしまいます。

これも戦争に発展させる為に態と素行の悪い吉良を特使にしたと言われている。
奥州越列藩は会津藩の援護の為に義憤から同盟し、

一時、北海道には五稜郭を中心に榎本武揚や土方才蔵や大鳥圭介等は国際連盟が承認した新国家も樹立したのです。

敗戦の主因は、中心となるべき伊達藩の足並みの乱れであり、武将同士の揚げ足取りや誹謗中傷で、有能な武士が徴用されなかった事に尽きると思う。

伊達藩は当初、薩長土佐連合から「会津藩を攻めろ」と指令される。

その指令に違和感を持ち、最初は和議を画策するが、薩長土佐の目的は日本の統一だったので旨く運ばなかった。

 尤も、現在の日本の発展には明治維新は避けて通れないものとする事に異存はありませんが、歴史は常に勝者側優位に語られるので、敗者側の正統性は霧散してしまいます。

実は、私の先祖は、南部藩の豪商だったそうで、南部藩主が戊辰戦争で敗れ、江戸に監禁され、其れが放免される時に、2回に亘って、最初に7万両、次に70万両の計77万両を明治政府から南部藩は要求されます。
しかし、疲弊した藩の金蔵は空っぽですから、困り果てて戦費や軍事物資を用立てていた豪商の鍵屋茂兵衛から借ります。

処が、その証文書は後の外務大臣、井上馨の策略により書き換えられ、貸した77万両は、何と借りたものになって仕舞います。借金のカタに取得した尾去沢鉱山も二束三文で売り払われます。

茂兵衛はその無念を辞世の句に認めて、他の家老や老中と共に、戦争責任を被って黒沢尻本陣の鍵屋の庭前で自害します。

その時の、辞世の句が、

「夢とのみ 聞きし浮世も 今更に 死ぬるばかりは まことなりけり」です。



奥州戊申戦争の裏の意味には、現在の天皇の正統性にも関わる大事な要素が隠されており、敗戦した東北各県はその後は新生明治政府、つまり長州土佐藩主体の政府から疎外され続ける。
その中でも、榎本武揚だけは軍師黒田の推挙で新政府に取り立てられ活躍します。人間のできた人は、敵方からも一目を於かれるという例ですが、その裏にこんな逸話があり、榎本が西洋に留学した時に集めた兵学書を、五稜郭で塵と消える覚悟を決めた時に、何と、敵将である黒田清輝に送ったのです。
「武将は、名将を知る」と言いますが、其れが縁で榎本は新政府に取り立てられ

政治家としても活躍したのです。

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