感染る価値

ここ3日間くらい様々な理由で寝不足なのだが、寝不足なときはとにかく、頭がボーッとするのがよくない。

眠いし、四肢の動きがぎこちなくなるし、口内炎ができたりするのだが、個人的には、頭の中で訳の分からないことを考えてそれを不意にぽろっと言ってしまいそうになるのが厄介だ。

昨日、医院での仕事中、器具を探していたらなんかプラズマクラスターと名前のつく何かがどうにかされている扇風機に頭をぶつけてしまったのだが、それを見て先生が「落ち着けー!」と私をたしなめてから、

「その扇風機三万するんだよ…」

と言った。私は驚きつつ、「えええ!私の中で扇風機は3千円で買うものなんですけど…」とか返していたのだが、反射的には、

「うつらないですかね俺の頭に三万の価値」

と言うセリフが私の喉にあるテキストボックスに構えていた。あと一歩で口に出してしまうところだったが押し留めた。

仕事を続けながら、昨年出演した『行軍演劇』のことを思い出した。

九州の俳優セクシーなかむらさんと、一応恋人役で共演したのだが、二人のシーンのはじめ、セクむらさんが登場するとき、満身創痍の彼が進んできてよろめいたところを私が抱きとめて支えるという演技を二人でした。(厳密に言えば少し違うが、ざっくり言うとこういうイメージ)

そのとき、よろめき抱きついてきたセクむらさんの頭にごんっと私の口が当たって、私が少し唇を怪我した。しかしそれも劇中ほとんど頭で処理することなく、二人で演技に集中して、問題なくシーンは進めていった。

終演してからすぐセクむらさんが「あのときごめんなさい!」と謝ってくれて、あ、そういやぶつかったな、とそこで思い出すくらいだった。なんか唇腫れてんなーと口を自分でむにむに動かしたりしていたが、特に気にしていなかった。

野外の沼での公園だったので、ドロドロの我々一行はそれから銭湯に直行したが、当時はかなりガラガラだった覚えがある。ほとんど人がいなくて、私が一人で風呂から上がったとき、女湯の更衣室には他に誰もいなかった。

そこは館内着に甚平が配られるところで、私は初めての体験だったのだが、風呂上がりにそれを着て、濡れた長い髪を後ろでお団子にまとめて更衣室の大きな姿見の前に立ってみると、自分は立派なナルシストゆえおお、我ながら様になっているな…と一人で思ったりした。

上気した顔や身体、少し濡れた髪、ツヤのある肌、生地が柔らかかったり薄かったり、また着脱が楽で言うなれば"はだけやすい"風呂上がりに好んで着られる服たちが、老若男女さまざまな館内の銭湯客に一定の色気を付与している。

色気とは何か、どうすればそれが得られるのか?ということを、たぶんセクむらさんと出会ってからよく考える。セクむらさんと初めてリアルで会った時に私が出した一つの答えは、"色気は母性(父性)"だった。だがしかしそれと銭湯客の色気がつながるかというと、そうでもないかもしれない。あでも、出産直後の母親と条件は似ているかしら?わからん。

まそれはどうでもいいのだが、姿見の前に立って自分を見ていたのだが、近づいてよく見ると、結構怪我した唇が腫れていることに気がついた。多分自分の歯で傷ついたので、口腔内の細菌が入ったのだと思う。

お、腫れとるわ、と思ったがふとその時、なんか今これ私の色気に一役買ってる気がすんな!と思った。

「目病み女に風邪ひき男」と言うことわざが妙に気に入っていて好きなのだが、まさにそう言う類の色気である。結論、今私かわいい〜となっていた。自分は立派なナルシストゆえ、それはほぼ毎日なっている。日に3回くらいはなっている。

セクむらさんは終演してから気にしていたようで何度も謝ってくれたのだが、ふとセクむらさんに茶化して言ってみようかなと思い浮かんだ台詞があった。

「いやーセクむらさんのセクシーがうつっちゃいましたよーーーーーー」

ダメダメダメダメ。却下却下。却下だよ。そんなのは却下だ。思いとどまった。

そもそも「うつる」の何が面白いんだ。使いやすいフレーズでもキャッチーな考え方でも無い。のだが、昨年の夏からほとんどちょうど一年後の昨日、また私の頭に「うつる」が降ってきたのだった。

感染る。食べる、行く、着ると同じくらいに、今ではもっぱら日常生活における思考や語彙のメインメンバーに食い込んでいるように思うが、それでも、色気や価値のようなものは、接触によって"感染する"なんてことはとても突飛であり得ないことだ。

思えば私は物心ついたときから、人に触られるのも触るのも凄く苦手で、親にも同じだった。

触れるだけで何かを奪うような、害を与えるようなそんなイメージがあるのだ。理由もなく、理屈ではなく感覚の部分でそうで、不意に誰かに触れそうになると反射的に避けてしまうことが多々あり、誤解を生むこともある。

相方と初めて撮影に臨んだ一昨年の夏、ポーズの一つとして相方から両手の指を絡ませてきた時の感覚を、私は今でも覚えている。

侵食とか、浸水というイメージで、肉の温さがなにか生々しく、手からじわじわと温かい液体に侵されるようだった。染み込むというよりは拡がりひたされていくような感覚。

そのときも、撮られながら内心少し驚いたり焦ったりして、漠然と、これが色気だろうか、と考えたものだ。触れることによって、何かが共鳴し始め、繋がるような気持ちがした。

なんとなくその時の私のことを思うと、全く馴染みの無いアイデアだが、私の中で処女というより童貞臭いってこんなかな、というイメージだった。端的にいえはドキドキしていたのだ。

彼氏と初めて手を繋いだ日に、ドキドキし過ぎてまともに喋ることも歩くこともままならなく死にそうだったので、偶然相方とも会えることになり、相方の手も取り3人で手を繋いで歩いたことがあった。彼氏と繋いだ方の手から伝わる衝撃とかドキドキを、相方と繋いだ方の手で緩和して中和して、安心して歩けた。

ここまでが2021/8/21の書いた部分、ここからはそれをほっといてたのを2021/10/21に再開した部分だ。

触れたり、会ったり、顔を合わせて話したりするのは、感染するためではない。侵食するためでも、害するためでもない。生活に必要だからだ。生きるのに必須だからだ。物との交渉と人との交渉それ自体が我々を生かしている。

神との交渉はいつでもどこでも一人でもできるし相手を感染させる心配もなく無限の供給を受けられるのでいいね!!

私達は病原菌よりもっと尊い営みを行なっていたのに、それが蝕まれ壊されて単純に悲しい。子どもの自殺が増えたのは、必要な営みの最低ラインを下回ってしまっているからだろう、それは大人は皆気づいているのだと思う。

あなたが素晴らしくて尊くて、大事であることを最後まで触れずに伝えるのは難しいと感じる。愛情の伝え方も「新しく」なるだろうか。キリストの十字架の愛は永遠であって、キリストを触りも見もせず、私達は生涯愛に触れ続ける。生きている私はどうすればいいのか。

今回も散文で駄文だった

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