静寂・沈黙・間(ま)・余白

 HSP的傾向が強いせいか、騒がしい場所が苦手である。のべつ幕なし鳴っているBGM、宣伝や呼び込み、私にとっては大音量、の話し声等々。気になり出したらもう、枚挙にいとまがないくらい、巷には音が溢れている。勿論、あくまで、私にとって、であり、私個人の感覚だが。
 自分の限界を超える騒がしさの中では、逆に叫び出したくなる。そんな時、私はさっさと、その場から退散するようにしている。即座にそれが出来ない状況の時は……。まったくもって、万事休すだ。「うるさいなぁ」と、心の中で毒づくか、ボソッと呟くか、してしまう。それも、もう少し口汚い言葉で。
 だからと言って、お喋りが嫌いな訳ではない。いわゆる「会話のキャッチボール」が感じられるお喋りは、むしろ大歓迎。

 そうしたお喋りと同じように、私は「静けさ」も好む。「静寂」に埋もれ、自分と向き合う。これぞ至福のとき。「沈黙」は、お友だち。「間(ま)」も、じっくり味わい、楽しみたい。「余白」を愛(め)で、大切にする心は失いたくない。

 「マヤコ101歳」(101は漢数字)なる本を読んだ。筆者の、御歳101歳、現役ピアニストの室井摩耶子氏は、その中で「人の感情は、実は音がないときに発展していくんです」(p.130)と、語っておられる。けだし名言、と私は思う。私の感性も、自分と向き合う静けさの中で育まれたに違いない。毒親たちや、別れたDV夫への、忖度に次ぐ忖度、職場での過剰適応と、ともすれば「アレキシサイミア(失感情症)」になりかねなかった私。実はもう、そこに片足を突っ込んでいたのかもしれない。つかの間ではあっても、周囲の目を盗み、欺き、自ら生み出した、静寂や沈黙のときが、私の失われつつあった、さまざまな「感情」を、甦らせてくれたのだ。きっと。

 数年ぶりにホールヘと足を運んだ、クラシックの音楽会。熱演であった。プログラムも然り。レイアウト、文字間、行間、あらゆる余白がギリギリまで削られ、紙面は文字で埋め尽くされていた。開演からアンコールまで、私はそれらのパワーに圧倒されっぱなしだった。正直言って、辟易した。「もっと光を!」ではないが「もっと余白を! 余裕を!!」と、心が叫んでいた。

 それもこれも、結局は、私のエネルギー不足ゆえのことか。

 ま、いっか。仕方ないか。エネルギー不足はダメ、ではないし。いつもいつもパワー全開、アクティブ、エネルギッシュ、ついでにポジティブ、なんて、私にはもうムリ。無理をして、そう装っていた時代は終わり。そうしてまで頑張った自分を、慰め、労り、労いたい。

 無理ばかりしていた、人生のあの頃、無意識の内に切望していたであろう「静寂」に、今こそ、好きなだけ身を置き「沈黙」を味わい「間(ま)」を楽しみ「余白」を大切にし、何よりも、我が人生を愛でたい。

 そう言えば「語ることは銀にして、沈黙は金なり」と、書写は硬筆の課題文で、書いたこともあったなぁ……。



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