「家族のトリセツ」に涙する

 以前から読みたいと思っていた黒川伊保子氏の「家族のトリセツ」を読んだ。涙が出て仕方がなかった。
 「欠点ゼロを目指さない・才能と欠点はセット・脳にはオール5なんてない・ノーリスク、オールゲインの人間などいない・家族に世間を持ち込まない・人生にも家族にも、ノーリスクはない・脳の癖は、一生モノ(脳の個性は治せない)・家族を変えるより、やり方を変える・失敗が脳を成長させる」まだまだあるし、一言一句そのまま抜き出してはいない。が、私にとって分かりやすく、まことに心地良いリズムの文章がドッカーンと、脳に飛び込んできた。そして、なんだか泣けてきた。私の育った家庭、家族がこうだったら、との思いが溢れ、悲しくてならなかった。

 考えれば考えるほど、思い返せば思い返すほど、私の育った家、家族に、こういう視点、価値観、姿勢は無かった。

 家の中では世間を見下し、悪し様に言っているくせに、我が家には「世間」が入り込んでいた。「他人様(ひとさま)に笑われない、むしろ私たち(=毒親たち)が自慢できる、良い子であれ」と、彼らからの隠されたメッセージが、確かにあった。
 「欠点など、あってはならない。完璧、完全であれ。何でもソツなく、スマートにこなせ。失敗など、もってのほか。早くしろ!」等、過剰な期待、命令が、毒ガスの如く充満していた。毒親のまき散らす毒ガス。それが我が家の「空気」だった。
 今、こうして書いているだけで、苦しくてたまらない。

 そんな毒を吸わせられていたにもかかわらず、表立った反抗もせず、社会生活が営めなくなるほどに病むこともなく、よく生き延びたものだ。 
 思うに、以前も書いたが、読書や音楽(鑑賞も演奏も)が、私の魂、精神、心、の逃げ場になっていたのだろう。そこでだけは、誰にも邪魔されず、自分らしさを実感し、その世界に埋没できた。又、その姿は、毒親たちを満足させる「良い子」の姿でもあったのだろう。

 閑話休題(話は変わって)
 これまたNET記事の受け売りだが「過去と他人は変えられない。変えられるのは自分自身」これに絡めて「(だからと言って)自分を削るような変え方は、望ましいものではない」という趣旨の言葉があった。自分(の心)を殺してまで、自分を相手の意に沿うべく変え、いつの間にか自分の心、感情が分からなくなるところまでイッテしまった私には、耳の痛い言葉であると同時に、とてもよく分かる言葉だった。
 そんな状況にあっても、自分だけがダメでおかしかったのではなく、周囲の人々(毒親たちと、別れたDV夫)も充分すぎるくらいおかしかったと気付けて、本当によかった。そういう人々から、物理的に離れるチャンスが与えられ、その「チャンスの前髪」を掴めたのもラッキーだった。そうするには、勇気も、エネルギーも必要だったろう。それを思うと、未だに胸が一杯になる。傷ついた自分、傷つけられた自分が見える。

 自分の育った家庭、属していた家族に、冒頭に挙げた視点、価値観、姿勢が無かったのは、本当に残念だ。だからこそ、それを反面教師にして、自分の道を歩みたい。
 自分(の心)を殺してまで、周囲に過剰適応せざるを得なかったのは、とても悔しい。もう二度と「自分を削るように、自分を無理矢理変え」ようとは思わない。ただ、それでも自分を変える必要を感じた時は「自分を豊かにし、より生き易くなる方向」に自分を変えたい。誰かのために無理矢理、ではなく、自分のために、自分が変わりたいと思ったら、だ。
 もっともっと、まだまだと「他人軸の理想」からの引き算で、自分を厳しくジャッジメントするのも、やめる。そして、冒頭に挙げた数々の言葉を「家族」のみならず「対人関係」にも適用してみたい。私に「家族」はもう、いないことだし。

 お互いの脳の癖を認め合い、欠点ゼロや脳のオール5など目指さず、失敗から学ぶ姿勢を保ち「問題解決の対話」ではなく「心の対話」を重ねて行ったら、どのような人間関係を構築できるだろう。

 同氏による「娘のトリセツ」は、この本(「家族の……」)より先に読んだ。今度は「夫のトリセツ」「妻のトリセツ」を読みたい。楽しみにしている。


 

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