気を抜いて、気楽に……(できたらいいなぁ)。

 夫の葬儀を終え「日常」に戻らなければならなくなった時、何もかも放り出して、ただただ悲しみの中に埋もれたかった。が、実際にそうする勇気は無かった。もともと、周囲に過剰適応して来た自分だ。実行しない理由は、いくらでも見つけられた。例えば、まだ任期の残っていた仕事への責任感。無責任な奴と思われたくないと、周囲の目を、評価を気にしての、に過ぎなかったが。まぁ現実的には、経済面。生きるためには、働かざるを得なかったし。だから、あらゆるエネルギーの枯渇を痛感しながらも、それまで以上に自分を叱咤して、任期満了までの日々を凌いだ。と書いてはいるが、勿論、そこには周囲の人々の支えや協力、忍耐もあったと思っている。
 そんな生活が始まったある日「あっちこっち、あれこれ、こんなに『気を遣って』自分、これじゃぁ持たないわ」と気付いた。同時に、それまでの人生、どれほど&どれだけ「気を遣って」生きて来たのだろうと、半ば、呆れながら思った。

 「気を遣う」文字通り「気」を遣ってしまう、消費する。私の場合は、無くなる一方。どうやって補充して来たのか、全く思い浮かばない。ものごころついて以来、ずーーっと、周囲に気ばかり遣って。これまで何度も書いて来たが、そうしたからこそ生き延びたのだけれど。
「やる気・根気・負けん気」ありとあらゆる「気」を動員し、使い果たしていた。それでも「生きる気力」まで使い果たさなくてよかった。使い果たしていたら「今ここ」に、私はいない。
 しかし、気付いたものの、どうすれば自分が楽になるのか、気を遣い過ぎなくなるのか、皆目見当もつかなかった。そうして日は過ぎて行った。

 任期も終わり、次の働き場を見つける気力も失われたまま、まさに「燃え尽きた」状態で始まった、おひとり様の生活。それは、他人に気を遣う必要の無い生活、でもあった。 目の前に、独りの自由、心地よさと、リスク、不安の、両方が横たわっていた。それでも、他人や周囲の状況に巻き込まれやすい自分にとって、独りの快適さ、気楽さはもう、何ものにも替えがたかった。そして今、私はやっと、悲しむのにもエネルギーが必要だったことに気付いた。同時に、疲れ果てているのを自覚した。その瞬間、何もかもが嫌になった。そこまで自分を追い込んだ自分自身に、うんざりした。何やってたんだ自分。自分で自分を疲れさせてどうすんだ。バッカじゃないの自分。あきれちゃうょ。
 誰にも気を遣う必要など無い筈なのに、脳内チャットでひとり反省会をする癖が抜けていなかった。私を傷つけ、貶めた過去の亡霊たちと、未だ闘っていた。これも頭の中で。もう、終わったことなのに。そして、悲しんでばかり。悲しかったのは事実だが。何でもないお喋りの出来る存在を喪い、それは淋しかった。私を苦しめた存在はのうのうと生きていて、私の大切な存在は死んでしまった、その理不尽さに懊悩した。
 そうするだけのエネルギーがあった自分に、驚く。

 ああ、もういいや。さすがに、もう疲れた。とことん、それこそ心ゆくまで、悲しんだ、かな。だからこそ、もういいやと思えるのかな。その時はその時で仕方がなかったし、その時の最善、を無意識で選んで来たのだし。「今を生きる」、「『今ここ』を感じる、意識する」が、何となく分かって来たような気もするし。
 
 これからは、気を抜いて、気楽に……(できたらいいなぁ)。
 
 この先、悲しみに襲われる時もあるだろう。虚しさ、やるせなさを感じる時もあるだろう。その時は、その感情を大切にしよう。気を遣い過ぎる時もあるだろう。気にし過ぎ、気を張り、疲れてしまう時もあるだろう。そんな自分に気付ければ、それでよしとしよう。

 頑張れ! じゃなくて、踏ん張れ!! 自分。ただし、気を抜いて、気楽にね。


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