号泣!!

 ノロケや自慢ではなく、以下、事実として……。

 亡夫は何のてらいも無く、ごく自然に、そして結構頻繁に「愛してる」と言ってくれた。けれどもそんな時私は、内心戸惑い、途方に暮れた。愛とは何なのか、全く分かっていなかったからである。

 毒親たちから常に、彼らにとって都合の “いい子” であれと、暗黙のメッセージを送られ、それを敏感に感じ取っていた。その時は、そうとは気付かなかったが。トロフィーワイフならぬ、トロフィーチャイルド、ドーターとして、毒親たちの期待に応えようと、必死に努力した。彼らからの労いなど、望むべくもなかった。全て、やって当たり前、できて当然。だって “うちの子” だもの。つまり、できなければ途端に “うちの子” ではなくなる。大人たちの自由を束縛し、女親のキャリア志向を断念させる原因となった邪魔者、無駄飯食い、穀潰しに成り下る。子どもにとって、これほどの恐怖があるだろうか。

 こうした恐怖をエネルギーに変換して生き延びて来た私に、自己肯定感や基本的信頼感など、構築される筈も無い。最初の結婚でDV夫を引き当て、搾取され続けたのは当然の帰結。これも既に書いて来たが、支配とコントロールが毒親たちからDV夫に、平行移動しただけだったのだから。
 そこから逃げ出し、離婚も成立した後、亡夫と出会った。彼と過ごす生活は、これ又既に書いたように、驚くことばかり。それだけならまだしも、最も大切な存在、と思っているにもかかわらず、私は彼に、それはきつく、辛くあたってしまった。そんな自分が自分でも理解できず、嫌でたまらなかった。そのことに苦しみ、深く悩んでいた時目にした「愛(する)とは、その人がその人らしく在るのを喜ぶこと」この言葉に、私は確かに救われた。彼が彼らしく在るのをそのまま、評価も批判もせずに、受け止められるようになった。が「愛・愛する・愛される」これらの言葉に対する違和感は消えなかった。愛なんて言葉、軽々に使いたくないと、いつも思っていた(今でも思っている)。故に、言われてもピンと来なくて喜べず、むしろ戸惑い、途方に暮れたのだった。大好きな、尊敬する、大切な存在が、言ってくれたにもかかわらず。

 時は過ぎ、そんな私を置いて、彼は逝ってしまった。

 つい最近観た net の記事に、あるお坊さん(高僧?)の言葉が紹介されていた。人が生きるために必要なこと、大切なこと、確かそのような内容だったと思う(定かではない)。
 それは以下の四つだった。
・愛されること
・ほめられること
・役に立つこと
・必要とされること
そして、これらに基づいた、子育て(子どもヘの言葉かけ)の情景が描かれていた。
 “愛されること”には「大好き!」と伝えている情景。
“ほめられること”には「頑張ってるね!」
“役に立つこと”には「ありがとう!」
“必要とされること”には「あなたがいてくれて嬉しい!」
絵柄も柔らかく、ほのぼの感満載。それらを読み、眺めて行く内に、突然込み上げるものがあり、私は号泣してしまった。

「大好き!」なら、私も亡夫に、よく言っていたなぁ。
「頑張ってるね!」と、私は毒親たちに言ってほしかったょ。
「ありがとう!」と、その都度その都度、私は亡夫に伝えた。彼は最初、物凄く遠慮していたけれど、次第に自分からも口にするようになったっけ。
「あなたがいてくれて嬉しい!」この言葉そのものを口にすることはなかったが、お互いが信頼し合う仲(中)で、感じ取っていたと思いたいし、思うなぁ。

 お互いを信頼し、かけがえのない存在と思い、感謝し、共に労い、労る。「自分がいなければ相手は何も出来ない」と、共依存するのではなく、別個の独立した存在として尊重し合う。亡夫と私は、そういう二人だったと、自負している。
 ただしそれは、意見の相違が無かった、ということではない。お互い頑固者同士、これだけは譲れないと、睨み合ったこともあった。それでも?「カエル化現象」には陥らなかった、かな。自分も含め、完全無欠の人間なんて、いない。
 「死者は美化される」ものだし「本当に醜い過去は思い出さないよう、脳が働く」これも分かっている。それを割り引いても、亡夫との思い出はあたたかく、平和だ。それまでが、あまりに波乱万丈、酷すぎた。

 毒親たちから「頑張ってるね」と言われたかった。私の努力、働き、行動を、認めてほしかった。こんな気持ちを抱いていたとは、ちょっとオドロキ。生きている間に、気付けてよかった。結局彼らは、そういうことも言えないヒトたち、だったのだ。今の思いは、それだけ。親ガチャハズレ、でも何でもない。あちらからすれば、子どもガチャハズレかもしれないのだから。

 毒親絡みで更に考えた。

 与えることの出来ないヒトに、与えてほしいと求めてもムダ。期待しても裏切られるだけ。自分のエネルギーの無駄遣い。結局、自分を満たすのは自分。対価や見返りを要求(期待)せずに、自分を本当に大切にできるのも、自分。
 更に。
 自分を大切にする=他人を蔑ろにする、ではない。自分を大切にできるからこそ、他人も大切にできる。そして、そこにあるのは自分軸。これまでの自分、今の自分を俯瞰し、しみじみそう思う。
 そう言えば、亡夫は超、がつくほど自分軸を持った人だった。だから?他人(ヒト)は他人(ヒト)自分は自分、みんな違ってみんないい、を地で行き、それに裏表は無かった。自分の出来ることを、できる時に、出来る量だけやっていた。俺がこんなにやってるんだから、お前もやれ、などとは決して言わなかった。私は心から尊敬する。

 最後に。
 私は「役に立つ」=「利益を生むような『働き』をすること」とは思っていないなぁ。「doing」ではなく「being」。その人の存在そのものが、誰かの喜びや安心、幸せになっているなら、もうそれでいい。又「ほめる」と「評価する」とは異なっているとも思う。なので「すごいね、えらいね」等の「評価」する言葉ではなく「頑張ってるね」という、やっていることや、やったこと、そのものに対する言葉を、私は相手に伝えたい。言われた側への影響の違いは、大きいと思う。たやすくできることではないのだろうけれど。

 毒親たち〜DV夫と、流れた歳月の中で喪ったものは、はかり知れない。心の傷も深い。こんなふうに号泣なんかしてしまうと、その傷がますます、えぐられる。受けた傷の深さを改めて思う。だからこそ私は、自分で自分を労い、労る。自己憐憫からではなく、悲劇のヒロインになりたいからでもなく。まあ、傍から見れば、充分そう見えるのかもしれないが、それは傍から見ている人の感覚であって、私、のそれではない。
 私は自分に、否定も肯定もせず、ただ、大変だったね、辛かったね、苦しかったね、怖かったね、頑張ったねと、言葉をかけたい。

 いろいろ思い巡らす日々、号泣の余韻は未だ消えない……。
 

 

 

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