互いの足を踏み付けながら

 私の“毒”両親は「仮面夫婦」だった。そして、私たち家族は「仮面家族」。
 休日は、家族でお出かけする仲良し家族。平日は、一家の大黒柱として真面目に働くサラリーマン、パートタイムで働き、亭主関白の夫に仕え、子育て、家事もこなす主婦、親や教師(=大人たち)の言うことをよく聞き、家の手伝いもし、勉強もそれなりに出来る子ども、を、それぞれが演じていた。
 成長するに連れ、そうした状況、雰囲気、関係に、私は違和感を抱くようになった。やがて「かさぶたはあるが、その下はまだドロドロに膿んでいる傷の、痛みも不快感もこらえ、そんな傷すら負っていないかのように振る舞っている家庭、家族」と、自分たちを認識するようになって行った。何とも気持ち悪かったが「大人たちにとって都合の『いい子』」の役割は放棄出来なかった。自分の存在価値はそこにしか無いと、思い込んで(思い込まされて)いたために。それでも「さっさと離婚すればいいのに」と、女親に言ったことはある。

 最終的に“毒”両親は、数年間の別居生活を経て、熟年離婚した。財産分与や慰謝料、あるいは寄与分等について話し合ったり、何か取り決めを行ったりして、公正証書を作ることもなく(かなり経ってから私は、こんな詳細を知った)。当時、最初の結婚相手によるDVに疲弊し切っていた私は、彼らの離婚に何も感じなかった。その日一日、自分(の命)を守るのに必死だった。その後私は、DV夫の下から逃げ出し、新たな生活を安全に始めるべく、彼らとも連絡を絶った。彼らは他人にはいい顔をしたい人だから、ウソを突き通せない。知っているけれど知らないとシラを切っても、百戦錬磨、したたかなDV夫には見抜かれてしまう。本当に知らないから知らない、と言わせた方が、彼らにとっても、私にとっても安全且つ安心と判断して。

 話は変わって。

 「『結婚する』と『結婚生活を維持して行く』は異なる」というような言葉をnetで目にした。相も変わらぬ月並な表現になるが「けだし名言」と思った。
 DV夫の下から逃げ出してからの、神経をますます擦り減らし、体力も消耗する現実生活に「一つの終わりは別の一つの始まり」を痛感し、終わらせるのにも始めるのにも、途方もないエネルギーが必要と、否応なく思わされた。
 結婚も同じ。結婚する=ゴール=終わり、ではなく、そこから新たな歩みが始まる。わたし流、オレ流、お互いが育った家庭の、わが家流。それが当たり前、それが心地良いと生活して来た「他人の二人」が共に暮らし、新たな「わたしたちの家、家族」を創って行く。それまでに身に付いた、それぞれの流儀だけが正しいわけでも、間違っているわけでもない。どちらかのみが良くて、そうでない方ばかりが悪いということでもない。ましてや、優劣など無い。どちらも正しく、優れており、どちらも間違っていて、劣っている。そのくらいに捉えて「では『私たち』はどういう流儀で行くか」を擦り合わせなければ「自分ばかりが『我慢している、否定される、認めてもらえない、受け容れてもらえない』」と、お互い、思うようになってしまうのではなかろうか。或いは「自分さえ我慢すれば、全ては上手く行く、平穏無事」とばかりに、諦めの(?)忍耐、沈黙を、守るようになってしまうのではないか。
 だとしたら、それは何と悲惨であることか。せっかく「新しい家庭」を築き「新たな家族」になろうと結婚したのに。ゼロサムゲームを始めたわけではないのに。

 「結婚生活の維持」には “双方の” ぶつかり合い、譲歩、etc.も、時には必要なのだ、きっと。ただし、そのためには「心理的安全性」の実感が欠かせない。
 お互いを責めたり、批判したり、軽蔑したりするのではなく、お互いの思い、想いを「自分」を主語にして口にする。そうしても大丈夫と感じられる「心理的安全性」が確保されていなければ、これは出来ない。何を言っても通じない思いをさせられたり、力(言葉であっても、物理的であっても)で捻じ伏せられたり、逆ギレされたり、フキハラされたりしたら、諦め(沈黙)の境地にもなる。
 最初の結婚で、私はそうなってしまい、心身共に蝕まれて行った。

 全てが異なる星に暮らしていた二人が、今度は二人とも暮らしたことのない未知の星で暮らす。周囲にはそれぞれの「実家」なる衛星が周っているのかもしれないが。これが「結婚生活」か。この例えからすれば「結婚」は、その新しい星に無事着陸したに過ぎない、と言えるだろう。

 私の“毒”両親は、思いを擦り合わせる発想も無く、それ以前に「心理的安全性」の確保も無かった。それぞれの「実家」の引力があまりにも強かった可能性だってある。「時代性」も否定出来ない。
 すると今度は、お互いがお互いの足を踏み付け「私の方が痛い!」、「俺の方が痛い!!」と、言い合ったままでいる、そんな情景が浮かんで来るのだ。二人とも「早くその足をどけろ」と言い「あんたが先にどけなさいよ」、「お前が先だろ」と罵り合いながらも、決してどけない。「せぇの!」と、一緒にどける提案もせずにいる。提案しないのは、お互いを信頼していないから。何とも滑稽極まりなく、憐れな光景だが、当人たちは気付いていない。一番痛いのは自分、と思い込み、相手の痛みなど、たいしたことない、大げさと、捉えている。そこに「そのヒトがそのヒトだからこそ」感じている、という認識は皆無。「(今は)そう感じているんだ、そう感じるヒトなんだ」という、受容も共感も無い。仮面夫婦になったのは必然。
 こんな場面だけでなく、離婚の際、何の協議も無かったその経緯に、私は「したたかな男と愚かな女」を見る。

 何だったんだ、この夫婦は。そんな二人の子どもである私って、ナニモノ?

 「親の言葉と茄子(なすび)の花は千に一つの無駄も無い」(=有難がっているのではなく、皮肉として)、「ヒトのフリみて我がフリ直せ」、「反面教師」(=私は彼らのようにはなりたくない)、こんなコトバが今、浮かんでいる。
 

 

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