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主題歌と考える『ラストマイル』



注意
この文章には映画『ラストマイル』のほかに、テレビドラマ『アンナチュラル』『MIU404』のネタバレを含む場合があります。
お気をつけください。

(なおパンフレットと副音声のネタバレはありません。単純にわたしがまだ履修していないからです)





映画『ラストマイル』公開の数日前、主題歌である『がらくた』がフルで配信された。そのお知らせを目にして何気なく再生ボタンを押したわたしは、数分後に首を傾げることになった。


これ、恋愛の歌だ………………。



おかしい。だって、あの映画が、あのふたりの恋愛話とは思えない。あのふたりはきっと、一瞬ですら恋愛的に描かれない。
公開直前にふたつのドラマを大急ぎで一気に見返したわたしの直感はそう言った。なんとなく、しかし確かにそう思った。
だからこそ、その主題歌が恋愛を歌っていることは、とてつもなく不思議だったのだ。



そして『ラストマイル』公開日。
徹夜明けを体をずるずると引き摺るようにして映画館へと辿り着いたわたしは、スクリーンの前でその理由を知ることとなる。




ラブストーリーとして観る
『ラストマイル』

(ネタバレを気にしない本当の記事タイトル)



『ラストマイル』という映画、多分主題は雇用とか、労働とか、仕事とか、そういうことなんだと思う。
ただ、とにかく恋愛の話が大好きなわたしは、これをラブストーリーだと捉えた。とにかく恋愛のシーンが好きすぎてそこばかり印象に残るから、恋愛の話としてインプットされてしまう。作中一度もたすくとまりかが同じ画面に映っていなくても、だ。
自分でもちょっとおかしいと思う。


この記事は、そんなわたしが他にも恋愛の話として捉えた『アンナチュラル』『MIU404』のいくつかのお話を交えながら、たすくとまりかについて思ったことをだらだらと綴ったものです。乱文ですのでお見苦しいと思いますが、お付き合いしていただける方がいらっしゃればどうぞよろしくお願いします。そんなに長くはないはずです。



○まりかが今でもたすくの部屋に通っていること

まずはこれ。
伊吹が嗅ぎ取れる匂いの閾値がどれほどなのか、わたしには検討がつかないが(そもそも本当に伊吹は鼻だけで判断したのか? とか、想像は尽きない)、パソコンで爆弾の作成者と普通に連絡が取れるくらいには足繁く通っていたのだ。それは事件を起こすブラックフライデーの直前だけだったのか。

わたしは、違うと思う。アンナチュラルの第一話の馬場のことを思い出す。高野が亡くなったあと、亡くなった高野を発見したあの部屋で一人眠る、馬場のことを。六郎は気味悪がっていたが、わたしはあのシーンがとても好きだ。もっと長い時間隣で眠りたかったんだろうなと思う。たくさんの後悔のなかに、ただひとつの深い愛情を感じる。馬場はこれから先の長い一生のなかで、高野のキスを忘れないのだなと思う。

あれを、まりかもしていたのかもしれない。たすくと共に過ごした夜を思って、たすくの部屋で一人眠っていたのかもしれない。そもそも家賃を払っているのはおそらくまりかだ。ただずっと、ひたすらにたすくの帰りを待っているのだ。
(ミコトママが半分同棲って言っていたけど、その割にまりかの私物が、志摩が女の存在を把握できないほどには少なかったのも萌える。部屋のなかの大好きな人の割合を増やしておきたかったのだなと思う)



○大好きな人のために死ぬこと、殺すこと

まりかの殺しと死は、贖いというよりは報復なのだと思う。

まず大事なことととして、まりかは他の人の命を殺していない。これがどれほど彼女の思惑によるものなのかは知る由もないが、強い爆弾を用意しなかったことは事実だ。
爆発すればなんでも良かったのかな、と思う。人を殺したかったわけではない。彼女のしたかったことは組織殺しだ。

MIU404の第八話で、ガマさんは最愛の人を亡くす。そしてその命を奪った人間を殺す。『刑事』だった自分を捨てても、だ。
『刑事』だった頃、ガマさんのなかの麗子さんの割合は一体何割だったのだろうと考える。きっと仕事が忙しかった。伊吹のような不良少年と時間をかけて向き合った。そんな『刑事』に真摯だった男が、どれだけ家庭と向き合えていただろうか。
(ここで陣馬さんのことを語り出しそうになったのだけれど、あまりに長くなってしまいそうなので割愛)

それが、喪ったとたんに一変する。この世界が麗子さんになる。箍が外れる。自分一人のために振るっていた力の、何倍も、何十倍もの強さが出せるようになる。呪いだ。
もう戻ってこない麗子さんの欠片を掻き集めるようにして残りの人生を埋めるガマさんが、まりかと重なる。たすくの飛び込みの前、ただの「たすくの恋人」だったまりかにはきっと、いろんな側面があった。この頃から広告を作っていたのだろうか。趣味はなんだろう。たすくと共にしない夜は、何を好んで過ごしていたのだろうか。それもこれも、たすくを喪った瞬間すべてゼロになって、たすくがまりかの全てになる。たすくのためならなんでもやれるようになる。死ねる。殺せる。
これを一言『愛』といえばそれまでだろうか。



○命綱

まりかは、とてつもなく大きな組織に恋人の死の責任をなすりつけられそうになっている。
きっと、悪いのは自分だったのかと、何度も何度も何度も自問自答したと思う。それでも組織を憎むのが止められなかったのは──自分のせいにしきれなかったのは、たすくからもらった愛のおかげではないかな、なんて考える。たすくにもらったとびきりの愛が、まりかに信じる力をくれたのだ。

アンナチュラルの第六話、巧は果歩の遺体を盗んだ。果歩は自殺していないと信じていたから。
巧にこう確信させたのは、果歩のあの幸せそうな表情と、今まで果歩が巧に渡した愛情なのだと思う。
結果、『見上げた根性』とやらで罪を犯してしまうところも、すごくよく似ているなぁと思う。



○主題歌と考える『アンナチュラル』と『ラストマイル』

さて、いろいろと引っ張り出してきたが、結局「たすくとまりか」のことを考えるときに一番対比したくなる(し、映画内でも少なからず意識されていると思う)のは、「中堂系と糀谷夕希子」だと思う。
指輪のはまった左手の薬指があの部屋でポトリと落ちるシーン、大好きだ。

さて本題である「主題歌と考える『ラストマイル』」の前に、少しだけ「主題歌と考える『アンナチュラル』」から。

『Lemon』の歌詞は少なからず「中堂系と糀谷夕希子」を意識したものだと思う。その歌詞を引用しながら「中堂系と糀谷夕希子」のことを考えてみる。
(主題歌の歌詞とドラマのキャラクターたちが一言一句一致しないことはわかっているつもりですが、ここでは境界線を曖昧にして話すことをお許し下さい。苦手な方はブラウザバックお願いします)




夢ならばどれほどよかったでしょう
未だにあなたのことを夢にみる

大好きな歌い出しだ。これほど近くに「夢」という言葉がでてきて、しかもその言葉の意味がそれぞれ違う。
中堂系は未だ糀谷夕希子のことを過去にしていないのだ。


きっともうこれ以上傷つくことなど
ありはしないとわかっている

中堂系は「糀谷夕希子を喪う以上に辛いことなど、未来永劫存在しない」と感じている。これ、とてつもないラブソングで、ラブストーリーだと思いませんか。


今でもあなたはわたしの光

あ〜〜〜!!!!!
糀谷夕希子は中堂系の生きる意味なんだ……。これからもずっと……。


良すぎる、本当に。
「切り分けた果実の片方の様に」って、中堂系の隣にいられる人はこの世界どこを探しても糀谷夕希子以外にいないって意味なのかな。良すぎる、本当に。



さて、5年以上噛み続けられてもまだ味のするガムをずっと味わうのもそれはそれで良いのですけど。
この記事をここまで読んでくださってい方々なら既にやっているか、これから何度でも出来てしまうと思うので、とりあえずこの辺で。



わたしが『ラストマイル』の主題歌『がらくた』と対比したいのはこの部分。

どこかであなたが今 わたしと同じ様な
涙にくれ 淋しさの中にいるなら
わたしのことなどどうか 忘れてください

そして『がらくた』の歌詞のこの部分。

例えばあなたが僕を 忘れていても
決して思い出せなくても
初めてまた会おう そして恋をしようよ

これ、本当に大きな違いだと思う。
『Lemon』と『がらくた』の違いであり、ひいては「中堂系と糀谷夕希子」と「たすくとまりか」の違い。

それは相手に対する罪悪感の有無なんじゃないかと、わたしは考える。


中堂さんは、糀谷夕希子がもし生まれ変わって、中堂さんのことを忘れてしまっていたら、自分から会いには行かないと思う。彼女に対して罪悪感があるから。彼女が自分に出会わなければ、と考えたことがあるから。

対してまりかは、たすくがもし1人で泣いていたとしたら、抱き締めに駆け寄ると思う。手を取って、温もりを分けて、笑い合って、また2人の人生を始めるのだ。彼女は、彼に対しての罪悪感がないから。


曲を聴きながらずっと、そんなことばかり考えています。『がらくた』、本当にいい曲で、大好きです。

ほかにも、大好きな歌詞をもうひとつだけ引用させてください。


どこかで失くしたものを探しにいこう
どこにもなくっても
どこにもなかったねと
笑う二人はがらくた

たすくとまりか、2人でひとつの生き物のように、互いに吐いた息だけを吸って、生きていたかったね……。病室で気管切開されてしまったたすくとはもう叶わないね……………。




たすくとまりかの2人のシーン、映画には要らなかったのだろうけど、観たかったな〜という下心があります。もし同じようなことを思っている方がいれば、『がらくた』の公式MVはかなり効くと思うので、よければ見てほしい。感じてほしい。


太陽の光じゃなくて、あくまで「月の明かり」なたすくとまりかの関係が、どこにでもある至って平凡な、それでも何より幸せなものであったのではないかと夢想します。





最後になりましたが、片方が仮死(植物状態)になっているうちにもう片方が自殺をしてしまうの、とってもロミオとジュリエットのラストシーンだよね、ということだけを言って、このダラダラした文章を終えようと思います。


最後の最後のシーン、眠っているたすくの瞼が小さく動いているんじゃないかというツイートをみて、注視しにいきました。1回目は動いていないように見えて、2回目は本当に動いているように見えました。

もし今たすくが起きたとしたら世界が地獄すぎる。
そしてロミジュリすぎる。本当に。




もう一度瞼の動きの有無も確認しながら、副音声を楽しんでこようと思います。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました!