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2/12〜 表現が好きという話


先週から日記を始めたわけだけど、前回のそれは読み返せば読み返すほど読めたもんじゃなくて笑ってしまう。

よく考えたら、これまでの人生の半分以上の期間書いてきた小説だって『さっぱり上手くなる気配がしない それでも楽しいから書いている』の状況なのだから、始めたばかりで上手に書けるわけもない。

でも、継続することがわたしのためだと思っているので、こんしゅうも書こうと思う。
まだあんまり楽しくはない。読み返すとあまりに下手くそなので。



日本語とわたし


さて、わたしは日本語が好きだ。
それを自覚したのは比較的最近だけど、小さい頃から本の虫だった。スマホを手にしてからは物理の本より電子の文字を追うことが増えたけど、文字に塗れた生活をしているのは今も変わらない。

もちろん紡がれている物語も好きだけど、いちばん好きなのはそれを象徴とする『表現』だ。ということに気がついたのも最近。
コンテンツを浴びてから数年後、ふと思い出すのは大筋のストーリーではなく、印象的な地の文や台詞であることが多い。


先週の映画を観た話にもそれらしい表現を入れてみた。

“背もたれと干渉することのないように長い髪を前に編み下ろして、毎日持ち運んでいた重たい荷物も全部全部おうちに置いて。”

読み返すとここだけ面白いくらい浮いていて、やはり素人がこういう擦れたことをしようとすると事故を起こすんだなぁと読み返していて思った。
恥ずかしくないし、むしろ面白くもあるからこのままにしておくけど。

勉強中は邪魔にならないように後ろでひとつに括っていた髪を、映画館の背もたれと干渉しないように前に編んで垂らした。常に持ち歩いていた重たいファイルと、これまた重たいキーボード付きのiPadとを家に置いて、軽い荷物と気持ちで映画館に行った、ということを表現しようとしているのだが、とにかく雑なのだ。
読んでる人にわかってもらおうという気概が微塵も感じられない。独りよがりも甚だしい。
こういうことをしたいのならせめて時間くらいかけてくれ、と先週のわたしに伝えたい。
そしてそれを学んだこんしゅうのわたしは、とても恥ずかしくてこの『象徴』みたいな文を日記に入れられない。
まあそれもいい。


わたしには、文字書きを生業としているおうちのひとがいる。ジャンルとしてはわたしが普段書いている小説よりも、この日記に近い。ただ人に正しく、わかりやすく伝えるために文字を連ねている人だから、わたしのこの独りよがりの文章を読んだら卒倒すると思う。実際、わたしの出した同人誌を何の気なくペラペラとめくり「文字が小さい」といってパタンと閉じたことのある人だ。そもそも「読ませる」文字ばかり書いているから「読ませる」文字以外が許せないのだと思う。
(そしてとてもじゃないが読まれたくないので、それでよかった)

そんなおうちのひとに、「一回(正確には2本)映画を見たらほかの映画も見たくなった」という旨を話した。先週の日記の内容である。
わたしはその心情の表現に、「ハードルが下がる」を用いた。そもそも映画というものがわたしにはハードルが高かったという意識もあったのだろう。「ハードルが下がる」自体、わたしはすごくよく使う表現で、少し俗っぽいとも思うけれど、日常生活で使うぶんには困らないとも思っていた。
 
しかし、それを聞いたおうちのひとは「弾みがついたんだね」と言った。
その瞬間、わたしには衝撃が走った。「弾みがつく」という表現。もちろん意味はわかるし、年に数回くらいの頻度でお会いするものではあるけど、わたしの口から発されたことは一度もないものだ。
すごく綺麗な日本語だ、と思った。やはり生業にしている人というのは違うなとも思った。


このおうちの人のレベルとまではいかなくても、もう少しまともな日本語つかいになりたいと願うのなら、これからも意識して日本語に触れていくほかないのだろうと思う。内容を理解するためだけに道具として消費するだけではなく、日本語そのものともう少し仲良くなっていきたいと思った。


そういう気持ちもあって、こんしゅうもこうやって日記を書いている。でもまあ、日記自体のハードルは上げすぎないように気をつける。

……またハードルを上げるって言っちゃった。


ちなみにおうちのひとは、わたしが俗っぽいインターネットスラングを使うのを嫌う。指摘されすぎてあまり気にも留めていないためパッと例も上がらないが、最近は「解像度が上がる」と言ったら叱られた。
やはり普段触れている文章がわたしの使う日本語に大きく影響を与えることは否定できないのだろう。わたしの日本語の「お里が知れる」前にうまく使い分けできるといいなと思う。


そう言えば、そのおうちのひとに誤字脱字が減らないという話をしたら「そもそも当日に書いたものを世に出そうとするのが間違い」と指摘されたこともある。
まったくもっておっしゃる通りだと思うが、それができないのがわたしである。こんしゅうは奇跡的に、この文章を水曜日に書いている。でも来週のわたしはわからない。来週のわたしは先週のわたしのように、日曜日の夜に焦りながら日記を書いているかもしれない。




こんしゅうは科学館にも行った。詳しい話は来週。


おしまい。
ここまで読んでくださった方、ありがとう。
あなたにとってもわたしにとっても、
明日からの来週がいい1週間になりますように。