男色大鑑「夢路の月代」の固唾の命論

男色大鑑 巻二の三『夢路の月代』の固唾の命論 小説風


一、はじめに

 この一題においては、なかなか面白い議論が若衆文化研究会およびその世話人である染谷教授による青山学院大学での特別講義の中であった。主な受講者はもちろん、学生である。

 その議論の対象とは、作中冒頭で剣術使いの丸尾勘右衛門が、美しい若衆、多村(たのむら)三之丞が小川に吐いた唾を下流ですくい上げ飲み干したという行為に関してである。
 染谷教授の御指導の下、議論の攻守は唾を飲む行為を「受け付けない」人と「受け入れる」人に分かれる。大方の学生と若衆研の社会人は「受け付けない」と嫌悪感を表明した。「受け入れる」側は数人という劣勢である。

 これは個人の嗜好、体験と考え方がもとになっていると思われるので、議論の末、心の置き場所としての攻守が入れ替わることもないだろう。染谷教授は「受け入れる」側だったようで、この議論を面白がっていたようだ。

 私と言えば、私は「受け入れる」側に回ろう。「受け入れない」人が大多数名だがこの授業の場合は20代の若者が殆どだ。何が受け入れられなかったのか、と私なりに考えた。、


・他人の唾が自分の口に入る、という現実を想像してしまう。この場合はそのような恋の所為を未体験の人が多いと思う。
・何を食べたか分からない、口臭がありそうな人の唾など飲めない。
・人の接触を嫌う潔癖感。
・粘膜接触の忌避感。


 多感な学生さん達だからほかにもあるだろう。こう書いていると私自身もぞっとするところはある。見も知らぬおじさんの唾を想像した人が多いだろうか。
 でも本当に好きできれいな人だったら、と「受け入れる」側は反論するだろう。

 「受け入れる」側の理論(?)を並べてみると、
・美しい若衆を射止めるためにすること。
・固唾という若衆の「命」は清らかだ。
・衆道とはそういうものだ。

 これからも想像がつくが、実はこれは心の置き場所の階層が違うところにある議論だ。ロマンチストな私も幼いころは好きな女の子がうんこをするなど想像も出来なかった。いや、もししてもそれは美しいものだ、などと思っていた。

 20代の潔癖な若者や、あまりエログロナンセンス(古語)に触れなかった人は、このような行為に嫌悪感を持つ可能性はあると思う。
 私は多くを見すぎたのかもしれない。それでもパゾリーニの「ソドムの市(1975)」のあの場面は閉口した。スカトロジーが好きな人は大丈夫なのだろう。DVDは一度見て売り払った。しかし市場では高値が付いていたことを報告しておく。

二、西鶴の罠

 物書きの性向としてこういう議論に晒されると、なにかいたずらごころを持ってしまう。「受け入れられない」人に対してどうやったら「それならいいや」と嫌悪の源泉を離れ、心の置き場所を少しずらせることが出来るのか。それを考えてしまうのだ。

 物書きなので小説にするとどのような景色を造ればよいか。西鶴先生のお噺を踏襲するならばまず勘右衛門の描写から始めなければならないだろう。

 勘右衛門の姿を原作から描写すると、三十歳前で髪型は『後ろ下がり』(万治二年:1659、徳川家綱の時代 の記述では『当世のはやり』とある)に結い、上下に黒い龍門に葉菊の五所紋(黒い艶のない舶来絹の着物と袴に丸に菊の紋所)、絹糸で編んだ平帯、大小は当時流行した「よしや風」で刀の反りを上にして差していた。
 と、現代ではぴんとこないが、西鶴が筆を極めて描いた強い伊達男のようだ。確かに原本の挿絵では連れ立って歩く二人の大小の刀は上に反っている。

 続いて、勘右衛門は「その名も隠れなき、兵法使い」とある。流派の言及はない。さらに、「古今類をなき少人好き、さまざま文を書きて、だますに手なし」。若衆好きでラブレターをあちこちに送りちょっかいを出していたというのだろうか。ただ興福寺の薪能(たきぎのう)などを見て参列していた寺院の稚児をものほしそうに眺めていたというところを見ると、あまりもてなかったような気がする。


 この描写から余人はいろいろ想像するのだが、学生からは残念ながら勘右衛門がどういう肉体の持ち主だったかは意見がなかった。ここで私は西鶴先生の文学上の第一の罠が仕掛けられているように感じた。関連する大きな罠は後半にもある。それを罠と考えるか、そんなものかと考えるか、読み手に丸投げされているということだ。これは例えば川端康成の小説を読むときも同じことが起こる。

 第二の罠はこの散文の範疇がそこに及んだばやいに述べるとしよう。もし述べられなかったら読者は頭を悩ませてほしいものだ。


三、恋する人の姿

 さてここまでの勘右衛門の姿は、かなりの使い手の剣客と考えたい。おそらく奈良の上家で剣術指南をしているのか、その腕を買われて馬廻りなどしているのか、であろう。着物や伊達ぶりを見ると禄高は高かったと思われる。『兵法つかい』であるので、筋肉質で眼光鋭く周りを威圧するような武士である可能性が高い。腕周りは真剣を振り回すほどに太かったとしよう。てもゴツゴツしていたかも知れない。散々手紙で誘っておいてもまだ若衆を物色しているのだから、もてなかったのはこの風貌だからかもしれない。

 扨(さて)、三之丞というと・・・西鶴先生、全然容姿にこだわっていないではないか!

「多村三之丞といへる情少人、折節この水上に来て唾をはけば、」
「素面自然の美男にして」

 「素面自然の美男」であり『情少人(なさけしょうじん)』ということである!つまり「衆道の情けが深くお化粧をしなくても美人」としか書いてないのだ。美少年はそうなんだろうが、どうも面影は想像しにくい。これを我々熱心な読者は勝手に「たくましい優男と美少年カップル」などと想像してしまう。それはそれでいい。ただ、それを証明できる記述はあまりないのだ。

 『三之丞は肌、顔、心根が美しかった』、とはこの描写で最大限、ぎりぎりのことろで「西鶴先生!それでいいんですよね!」と叫べる限界か。

 だが二人の容姿は実はこの物語全体ではあまり重要ではないのだ。容姿が意味を持つのは、この二人の出会いの場面のみではないかと私は思う。


四、小説風「夢路の月代」出会い

 この日は陰暦二月の曇りの寒空。昼でも春日神社の鹿の声も寂しそうに聞こえた。

 勘右衛門は下人を連れて春日山の岩井川に釣りに来る。岩井川は現在では「岩井川ダム」となっており春日山原生林の中にあったようだ。冬の山の上では鍛えた肉体でも寒かっただろう。ここでもし勘右衛門が厚着をしていたならその肩背はこんもりとしてさらに厳(いかめ)しい姿になっていただろう。髪の髷とタボを当世風に「下げて」いたというのだから、月代は目立ち、額が広く見え、また剣客なので絶対に首を落とす姿勢はしない。目付け(相手を見る目つき)は「五輪書」や柳生新陰流の口伝書から読み解くと、敵を上から見る体勢とされている。ますます威圧的ではあろうやな。

 蝿針でイワナでも釣ろうとしていたのだろうか、そうだとするとそこは岩場である。せわしなく岩陰から針を川に投げ込んでいる時、岩と流れる水音とで勘右衛門達に気づかず、三之丞はその少し離れた水上に来た。小用をたそうとしているので下男は土手で待たせてある。

 勘右衛門はその姿を見て、小声だが通る声で、

「五平!あちらの岩陰に行け!姿を見られるな!」
と、とっさに喜ばしい予感にかられて下男を追いやった。

「へ、へい、旦那様」
「あー、はよ!いっそのこと、先に帰れ!」
「そうでございますか!あー、あの御仁ですな。ではこれで御暇します。御気張れなされませ!」

 思わぬ暇(いとま)を吉として、主人の手紙をさんざん運ばされてうんざりしていた初老の男はそそくさと荷物をまとめ、帰っていった。

 勘右衛門は途中にある岩で姿が見えないことを幸い、小首をかしげて上流をちらちら見た。
「なんと・・・気優しげな若衆よ」

 原本の挿絵を見ると、三之丞は振り袖の若衆姿。刀をやはり「よしや風」に差している。
 三之丞は土手で下男を待たせて一人川面に見入る。
 清らかな流れに映る自分を眺めていたが、先ごろからの喉の嗄れがこみ上げてきた。

 舌の上に汚れを溜めてそれをぺっと水中に吐き出した。

 「今ぞ!」

 それを見た勘右衛門は素早く流れの近くの岩場に移り、平たいところにに片膝を立て身繕いをする。緩んだ着物の腹裾を袴にたくし込み、襟を正し、髪に手を当て乱れを直す。威厳を持った武士の姿に戻り、腰を立て、首を立て、顎を少し出す。上反りに差した大刀の柄を下に左手で押し下げて体を川面に乗り出した。背を曲げないように腰を下げ、立てた膝と腰を大きく割った。そして両手を川面に差し出してその瞬間を待った。

 三之丞が何気なく固唾の泡を見送って下流に顔を向ける。
「あっ!」
 そこには屈強な体に黒ずくめの不気味な侍が水を飲もうとしているではないか。

五、恐れ

 三之丞は背筋が凍った!

 あのような恐ろしい侍が怒ったら自分などはひとたまりもない。だが自分は十四の若衆であるという矜持もある。いざとなったらこの肉体を侍の意のままに任せて怒りを解くこともできるだろうか。一時のことなら我慢をすれば良い。これまでにも幾人か、この人と思った侍と床を同じにした。しかし皆、違ったのだ。

 そして、最も不自然で起こってほしくないことが現実となった。よりによって自分の固唾の泡を掬ってその侍は飲みはじめてしまった。歩きにくい岩場を錦の袴をたくし上げよろけながら三之丞は下流に急いだ。

 その武士は一旦飲むのをやめ、身を起こし少し下を向き片膝をついて腰を落としたまま目を瞑ってじっとしていた。手のひらはしっかりと合わせて掬った水はそのままに留まっている。なにか神々しいものを手の上に載せているように一見見える。あるいは固唾が浮いていたことが分かって怒りを腹に溜めでいるのではないか。じっとしているのは気配で自分が近づいてくることが分かるのだろう。穢れたものを自分に飲ませた輩を待っているのかも知れない。早く行って詫びを入れなければ!

 三之丞には勘右衛門の腰を落としている岩場に近づくまで、なんとゆっくりと時間が流れたことだろう。
 
 三之丞が勘右衛門の隣の平岩の上にたどり着いた時、三之丞の息は乱れていた。しかし彼も武士の子、取り乱した姿ではいけない。しばらく身を整え息を鎮めるために佇んだ。するとどうしたことだろう。次の瞬間、勘右衛門は掬った水を喉を鳴らして飲んでしまったのだ!三之丞は唖然とした。

 飲み干すと勘右衛門はゆっくりと三之丞を見た。鋭い目が下から三之丞を刺す。袖から出た腕は太く興福寺の仁王像のように人のものとは思えない。それが剣を抜けばたちどころに自分の首は飛ぶだろう。万事休すか!

 三之丞はその目を見入ったが、敵意はない。
 気を鎮め言うべきことを言わねばならない。だが、侍である。相手の身分が分かるまでへりくだってはならない。慎重に言葉を選んだ。

「ここで貴方様がお手水(ちょうず)をおつかいになるとは思いもよらず、無礼なものを吐きました。全くお許しを乞うばかりです」

 三之丞は勘右衛門の挙動の不審さが頭をかすめたが、相手に直面している今はそれどころではなかった。お互い武士の身。たちどころに命のやり取りも起こり得る。

六、変容

 ところが勘右衛門の目が優しく笑った。上から見ると額から月代を剃った艶の良い頭の頂点まで見える。そして不気味な姿に似合わない精悍な声で言った。

「只今の御つばき、行く水につれてうたかたの間もなく消えるいのちが惜しく、すくい上げて飲み干してしまいました」
 そしてにっこり笑った。わざとだ!と思いつつ、これほどまでに詩的な受け答えをされれば三之丞の胸がきゅんとなったことも頷ける。

 方丈記の、
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」
 流れ行く水とうたかた(泡)とうたかた(短い時間)の固唾の「命」。このフレーズと場面の結合は西鶴先生の真骨頂であろう。

 物語はこの後、お互いに何度も屋敷まで送り送られして衆道の恋を深めていくのだが、この出会いがあったからのことであろう。

 と、勘右衛門の策略を知りつつ、三之丞は仕組まれた芝居に乗って衆道の契に至ったというのが私が自然に受け入れられるシナリオのように思える。ありえない恋の駆け引きというか、勘右衛門の執念も西鶴先生はきれいに表現なすったものだ。

令和二年元旦


後記
 本文で、三之丞が「小用をたそうと」と書いたのを見て、自分が無意識に書いたものながら、吹き出してしまった。若衆が薪能を見に行って、きらびやかな振り袖と袴で衆人が使う厠に行くだろうか。良家の息子ならば下男が付いているのはこの物語集を読む上で常識である。私は下男も遠ざけたとした。能は長丁場である。本当に小用を足していたならこの物語は無かったのだろうか?いやいや、西鶴先生、本当はそうやったんやが、やはりやりすぎはいかんと思うてな!第一、薄まってしまうやろが!がはは!と仰るだろうか?LOL


蛇足
 冒頭で西鶴先生の「第二の罠」について述べておいて書けなかったが、それが気になった読者のために続けておこう。第二の罠は、持てない剣客だったはずの勘右衛門に実は念者の若衆がいたとということだろう。

 勘右衛門が死んで三之丞が弔いの場に行った時に突然、佐内という元服したての若衆が現れる。
 固唾を小川に吐いた瞬間に三之丞に対する恋の手管を仕掛け、容貌と不釣り合いな格好良い台詞を絞り出し、何度もストーカーのように三之丞の後を追い、読者は、ああ、そんなに苦労して三之丞を手に入れたんだね!と同情を持たれたかも知れない男にすでに幾度も枕を共にした少年がいたとは、読者の先入観を全く裏切るものだ。

 これは読者の記憶を突き飛ばす文学上の手法と言えば、驚かれるだろうか。私は前述した川端康成の自伝的小説と言われる「少年」でいやというほどそれを味わい小説の書き方の妙味を実感した。読者は最初に持った浅はかな先入観を鮮やかに否定される。そのことは私の論考『川端康成と「少年」、清野少年の虚像と川端の実像について』に詳しく述べてある。ただ、文学者がやろうと思って簡単に出来る手法ではない。

 三島由紀夫も川端の批評に言葉を変えてそれを何度も述べている。それは他の人間が川端の本質を述べることを嫌ったためと私は考える。だから直截的な表現はせず、自分以外の川端への批判を抹殺する意図を持っていたと思う。「少年」はNHKで「男色大鑑」が紹介された番組の最後に少年愛の文学として紹介されて、私はそれがきっかけで川端と三島の沼に足を踏み込んでしまった。

 美少年の唾を飲めるか否か、についてから始めた散文だが、かなり本筋から離れてしまった。特に歳をとったからか、思ひつきのままに文章を書いてしまう。その意識の中で、西鶴先生の小説手法からの影響はとても大きい。

令和二年睦月七日(なぬか)

『川端康成と「少年」、清野少年の虚像と川端の実像について』
https://kakuyomu.jp/works/1177354054890741013

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