「おっさんずラブ」は BL でなかったか

*全て敬称略、ネタバレを含む内容となりますので、避けたい方は閲覧避けてください。
*また全て個人の感想や感覚に基づく記載となることをお含みおきください。

「おっさんずラブ」は BL 作品なのか?と問われると困ることがある。

私は「おっさんずラブ」に関してはBL作品ではないと位置付けている。それ故、「おっさんずラブ」が BL を前面に出していない作品であったからこそ、よかったことがあったのだが、それが続編になってないものになってしまっていないかと、少し残念に思っている。

私がBLに関する所感をまとめた「実写BL直感想/なぜBLでなくてはならないのか?」にて、BLのことを「強い力学や熱量が衝動的に発生するもの」と位置付けている。しかし「おっさんずラブ」では、そうした力学や熱量が、ストーリー展開や設定において特段見受けられていない。

「おっさんずラブ」のストーリーの軸は、春田創一(田中圭)が上司である部長の黒澤武蔵(吉田鋼太郎)に突然告白されるが、そこで同時に。直近同じ職場になった後輩の牧凌太(林遣都)からも告白され、2人の間でドタバタした恋愛に振り回されながらも、「誰かを好きになるとはどういうことか?」を再度見つめ直すというストーリーである。

当初、というよりも本来「おっさんずラブ」のドラマが押し出そうとしていたのは、春田に対する黒澤の強烈なアプローチを大げさにすることで、笑いを生み出そうとすることや、黒澤と牧が張り合うことで生まれるバトルの激しさで、それを「面白さ」として押し出すことだった。しかし、実際に熱狂の対象となったのは、春田が「人を好きになるとはどういうことなのか」ということを考え、人を愛するということに向き合う話になったことであり、その中心であった牧に対してであった。

正直なところ、付き合いの長かった年上の上司(黒澤)から一方的な好意を寄せられるということは、年下の部下である春田にとって、職場のパワー関係において拒否できない状態である。

上記のことから春田は、黒澤からの強烈なアプローチに対して困惑し、うろたえ、おたおたしてはっきりさせない態度を取り続けるのだが、これは春田が優柔不断というよりは、断ることのできないパワー関係に飲み込まれ、かといって(元々の性格もあって)拒否ができないという、パワーハラスメント的なスパイラル状況にただ巻き込まれているにすぎない。

こうした男女問わずハラスメント的な、これらの行為が「笑い」となることは、BL を好む層の多くを占める女性にとっては思い当たることも含め受け入れ難いものであり、純粋な笑いにはならなかったと思う。
つまり、ターゲット層としているであろう層からは、本来見放される作品であったはずだった。*1

前回の自著「実写BL直感想/なぜBLでなくてはならないのか?」では書ききれなかったが、BLで見たいところは「人がなぜ人のことを好きになるのか」、「人を愛するとはどういうことか」ということやその過程である。だからこそ、その部分をいかに描くかということになる。

しかし、脚本は上記のような展開をあくまで「コメディ」と捉えており、この「コメディ」が中心として脚本や演出が組み立てられている以上、恋愛としての要素はコメディを作り上げるうえでの、相関関係を作り上げたり、コメディのための理由付けのものでしかなかった。

それが一方で、実際に放送された「おっさんずラブ」では恋愛がむしろ押し出され、その結果受け入れられた作品となっている。

コメディの補強要素であった恋愛がクローズアップされたのはなぜか、それはあくまでも演者の演技、特に、いやむしろ林遣都ただ1人の BL としての演技によって成立されている。

「人がなぜ人を好きになるのか」は、あくまでも「おっさんずラブ」本編の展開には含まれていない。しかし、ヒロイン的に目立つ展開と演出、「昔から好きだった」という理由づけがなされていた黒澤(吉田鋼太郎)の一方で、黒澤にまるで巻き込まれたように、エピソードも少ない状況で勢いで春田(田中圭)に告白したような牧(林遣都)の方が視聴者の心を打ったのは、牧が「春田のことを好きである」という「人がなぜ人のことを好きになるのか」、「人を愛するとはどういうことか」を表現していたからだろう。

牧は、押しが強くて突発的な行動を取るため、何を考えているかわからないところがある。さっきまで好きだ好きだと言って押してきたと思ったら、今度は「好きじゃない」とまで言って急にいなくなろうとする。黒澤に対しても攻撃的に振る舞っており、黒澤にも劣らず牧も春田に対しては強引な行動を取るのだが、その行動がハラスメント的に受け取られることは少ない。

上述のとおり牧の行動だけを見ると、牧に共感することはなく、むしろ長年恋愛感情を募らせていた黒澤を、邪魔する存在として位置付けられているようにも思える。

しかし視聴者が心を寄せるのは牧であったのは、牧が実は健気で傷つきやすい性格であることや、人の幸せを考えて自分の身を引いてしまうような性格であることを、演技で補填できていたからだろう。

春田と出会った時は「そりゃモテないわ」の一言で済まされていた春田を、牧が好きになった明確なきっかけはわからない。しかし春田といるときの牧は楽しそうに笑い、彼が周りから愛されている様子を見て、嬉しそうな顔をする。「好きになった」という明確な出来事ではなくて、ちょっとしたことの積み重ねで、1話の病室に駆け込んでくる牧の様子で、牧は春田を好きになっているのだと、容易にわかるほどだ。

BLでは直接的に語られる言葉が少ないことや、恋愛的な展開が恋愛らしく受け止められるためには、演出や演技が必要となってくる。「おっさんずラブ」は、演出のポイントが少なかった分、演技で補填するところが多い。台詞を言う前後や、他の登場人物がフォーカスされるシーンなどの空白となる瞬間に、いかに「相手のことを好きである」ということを差し込めるかということになり、これは演技の力量が求められてくる。

その点で言うと林遣都は、お笑い台詞になりそうな「巨根じゃだめですか」を、演技の強さで切なさを押し込んでくる。本当なのに嘘をついて「冗談です」と言った後に次々と春田から「家追い出そうと思った」、「男同士なんてあり得ない」、「裏切られた気分だ」と浴びせられる台詞に、そして自分に気持ちがないことを春田から間接的に知らされるたびに、笑って見せながらそっと傷ついた顔をして、自分の感情を飲み込んだ顔をする。「春田さんのことなんか好きじゃない」と言うのも、明かな嘘であるとわかるが、その後ろに相手を幸せにできないと思っていることへの悲しさや辛さが隠されていることが、容易にわかる。

牧がどのくらい春田のことを好きなのかや、牧の性格がどういうものなのかも、ドラマのストーリ内で明確に明示していなくても、演技がそれを明らかにしている。傷ついている顔を見せないようにするところだとか、泣いている顔を精一杯隠そうとするところだとか。黒澤と付き合った春田の一挙一動を聞けば、好きなのに普通であるように装っている(ことが明白である)演技をする。

自分の気持ちを押し殺す演技と、春田から拒否されると隠れたところで傷ついた顔をしたり、諦めたように笑ったりする。大丈夫じゃないのに大丈夫だと言って笑って見せ、不安な顔を残す。自分が傷ついたり苦しんだりするときは、必死で隠そうとする。視聴者には牧のその一部始終が詳らかにされるので、視聴者は牧の方にどうしても感情移入してしまい、牧の方を見てしまうようになる。「そんないい奴じゃないですから」と自分のことを言うときも、視聴者もちず(内田理央)と同時に「そんなことないよ」と思ったはずだろう。

決定的な林遣都の演技がある。10話(最終話)でちずが牧の後を追いかけて居酒屋の戸を開けたとき、戸の開いた音で、一瞬自分を呼び止めたことに期待する顔をして、相手がちずであることを認めると納得したような、諦めたような顔をする。「好きな相手が追いかけてくれたらいいのに、と少しだけ期待したが、違ったのですぐさま平静を取り繕った時の顔」というのは、BLの教科書に載せてほしいくらいの演技である。

上記のような林遣都の細かい演技が、牧の語られていない性格を明らかにし、自分が傷ついていることを隠そうとして、傷ついている時は寂しそうな顔をする。この細かな演技のおかげで、ドラマ内で描ききれていない牧の人間性が伝わる。

同時に、牧がこういう性格であると伝わるからこそ、牧のことを春田が次第に好きになっていくのも理解できる。

牧が突発的な行動を取るのは、なりふり構わない程度のことをしないと相手に行動を起こせないからで、実際は人の幸せを考えて身を引こうとしたり、自分が幸せなのを信じられなかったりする。牧が自分の気持ちを言葉にできないぶん、寂しそうな顔をするのを、春田もわかるのだろうと思う。まさしく「勝手に決めるな」という牧の性格も、そのうえで春田によってやっと顕在化したことなのだろう。

「おっさんずラブ」は演者の演技に支えられて、恋愛要素を軸にすることができ、またハラスメント的な演出や展開についても、演技の力によって中和されていると思える。

「おっさんずラブ」は BL 作品であることを押し出していないことによって、「人として好き」という好感を持って相手を受け止めることと、恋愛感情による「好き」ということの違いは何なのかを問う作品だった。BLでは男性からの好意が圧倒的に優位に描かれるが、「おっさんずラブ」は、「男性である牧に対する好意」と「女性で幼馴染みのちずへの好意」というものについては、後者の方が優位に置かれていることからも、BL作品ではないように感じる。

同時に、BL 作品はどうしても「恋愛をすること」が当たり前で幸せのルートである、となる一方で、「おっさんずラブ」は恋愛をすることが全ての幸せであるようにフォーカスされていなかったのがよかった。

劇場版のちずは「仕事も家庭も天下をとる」と言って、何事よりもまず恋愛でなければならない、という様子ではなかった。武川(眞島秀和)は恋愛を追い求めるということではなく、相手を思い続けることが幸せであってほしかった。また、鉄平(児嶋一哉)と舞香(伊藤修子)は劇場版では結婚していない様子もそれぞれの形に合っていてよかったように思う。*2

その一方で、「おっさんずラブ」の続編は、「結婚」、「子供」、「嫁姑バトル」という今更感の話題が出ているような気がしてならない。

春田と同居を再開した牧と黒澤、栗林(金子大地)と再婚した蝶子(大塚寧々)は、栗林が最も若いキャラクターであるにも関わらず、この時代に義実家と同居して義母トラブル、鉄平と舞香はまさかと思うが結婚して子供がいることになり、仕事に邁進するちずは離婚してシングルマザーになるというように、様々な登場人物たちが「結婚」によって、家庭とその家庭内での擦られ続けたトラブルやドラマに、収斂されてしまったように思える。

ここまで記載してきたとおり、「おっさんずラブ」の続編では、牧と黒澤のバトルという「コメディ」よりも、「人を愛するとはどういうことか」を、今度は恋愛の始まりからより進んだステージで、丁寧に描いてほしいと思っていた。

どうしても未だ、恋愛の「次のステージ」というものが結婚となってしまう現状で、男性同士の恋愛関係を、よくある家庭ドラマのパターンに当てはめられて「コメディ」のように昇華されることは、正直なところ望んではいない。また、前シリーズと劇場版で牧の方に感情移入している(自分を含む)視聴者にとっては、もう牧を傷つけるようなことは起こさず、2人の幸せな様子だけを見せてくれるだけでいいのに、と思えてしまうだろう。*3

また、武川もまた恋愛を追い求めるようなストーリー展開になるなど、「恋愛=幸せ」という揺り戻しが起こってしまうであろうことも、残念である。BL作品では相手がいないことを哀れまれて、カップルの相手がいない登場人物に対して「幸せにしてほしい(=恋愛相手をあてがってあげてほしい)」と言ってしまいがちだが、勝手ながら武川には「相手を思うことが幸せ」という、恋愛が成立しなくても幸せに幸せに生きていける、ということを体現してほしかった。
この段階になってまた、武川と牧という恋愛ステージの話を再度蒸し返されるのも、また同じ展開を繰り返しているように思えてならない。恋愛が成就しなくとも、恋愛が起こらなくとも、武川は武川の生きるうえでの幸せが見つけられるような展開であってほしいと思う。

「おっさんずラブ」続編がどのようなものになるかはわからないが、演技の力で引き上げられた「人が人を愛する」という問いに対して、よくある家庭トラブルでドラマ仕立てにすることだけは避けてほしいと切に思っている。



*1  2 期となる「in the sky」では、春田の上司である機長の黒澤からのアプローチはかなり控えられているものの、今度は春田の方が年下の成瀬(千葉雄大)に対して強引に迫るような展開となり、その展開は年齢的なパワーバランスの面から幻滅させられた。

*2 ドラマ「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい」では、ドラマ内で恋愛の優先度が低いキャラクターが登場していたが、主要人物でこういったキャラクターが登場するのはBLでは稀である。ちなみに原作漫画ではこのキャラクターは腐女子なので、少し意味合いが違う。

*3「体感予報」は出来上がっていないカップルのいちゃつく様子を後半はただ見せられたため、視聴者が置いていかれる感があったが、「おっさんずラブ」はむしろ出来上がっているカップルなので、ただただ春田と牧で仲良く暮らしている様子を見せるだけでもいいのではないかと思う。

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