模倣ってなに?

 皆さんは、模倣という言葉をご存じだろうか。

 一時期ネット上で、「あるイラストレーターの絵柄を真似て絵を描き公開すると、そのイラストレーターの権利を侵害することになるのか」という話題があがったのを思い出す。結局、「作風は作品ではないので、模倣しても問題ない」という結論が出たのだが、そのとき思ったことを書く。


 先ほど「作風を真似ることは問題ない」という結論が出たといったが、必ずしも模倣が認められるわけではないと思う。例えば、あるイラストレーターの絵柄を真似た者が、その絵柄を使って不適切な作品を投稿するなどした場合、もとのイラストレーターの権利は侵害される。

 しかし、模倣が惡だと言いたいわけではない。


 もう一つの事例として、昨年の春ごろ、「不謹慎系YouTuber」が大量発生した時期があった。ある投稿者が投稿した不謹慎動画が伸びたことにより、その後追いで、下位互換的に不謹慎動画を投稿するチャンネルがいくつも開設された。彼らも同様に投稿内容は不謹慎なものばかりだが、内容のクオリティは最初のチャンネルに比べはるかに低いものが多かった。

 彼ら「下位互換不謹慎系YouTuber」は、元の不謹慎投稿者の喋り方や動画内容、見た目などをその人に似せ、新たな要素を追加しなかったから、下位互換と呼ばれたのだと思っている。


 0から1を作り出すのは難しい。だから人は模倣する。絵画だって、音楽だって、先人を模倣することで続いてきた。

 しかし、新たなジャンルの絵画や音楽は、どうして生まれたのか。

 もちろん、模倣を排して0から生まれたものもあるが、既存の複数の要素を組み合わせて模倣することによって、新たな魅力が生み出されることもある。


 私は最近、ある口が達者なインフルエンサーの口調を模倣しているが、はたから見れば、彼の言う「搾取される側の低レベルの人間」のように映るだろう。模倣は「何かを生み出す足掛かり」であると認識しているから、私は彼の意見に無条件に賛同しないし、ときに彼を批判することさえある。しかし、私がその人を模倣する理由はそれだけではない。

 彼のやるパフォーマンスのように、一つの話題に対して具体的な根拠などをもとに、不確定な感情論を排して答えを出していくと、自分の中の論理の破綻に気づけるからだ。

 例えば、「原発は稼働すべきか」という話題に対し、ニュースなどで原発に負のイメージを持っているという理由だけで「原発反対」と言うと、その根拠が提示できなくて言葉に詰まる。同じ反対意見でも、ヨーロッパ諸国での再生可能エネルギーの事例を出して原発の必要性を否定したり、賛成するとしたら「自分は原発にトラブルがあっても困らない」という理由を提示することができる。

 感情に基づいて行動することが惡だというわけではないが、筋の通った意見を主張できるようになりたいという理由があって、私はそのインフルエンサーを模倣している。


 結論として、「目的としての模倣」に意味はなく、「新しいものを生み出す手段としての模倣」に意味があると言いたい。

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