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例えば登校する子どもを朝玄関で見送るとき〜映画『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』感想

例えば小学校へ登校する子どもを朝玄関で見送るとき、これが今生の別れになるかもしれない、とは考えない。頭をよぎる瞬間は常にあれど、考えないようにして我が子を家から送り出す。いちいち毎朝そこまで敏感になっていられないからだ。

でも、そうなる可能性は0.0数%かもしれないが確実にある。何かひどい犯罪や事故に遭ってもう2度と会えなくなる。その時きっと、あの朝の取るに足らないやり取りが最期になるなんてと後悔するに違いない。

例えばスマホで何かの契約にサインする時、上記全てに同意する方はこちらにチェック、なんてさらっと怖いことが書いてある。チェックしないと次の手続きに進めないようになっているから、細かい約款など読んでないけど同意の意志を表明する。

その瞬間大事な権利を手放したかもしれない、後で取り返しのつかないことになるかもしれない、と僅かに思う。しかしそういうことは考えないようにする。

というように人間とは頭で分かっていても別の行動をとることがある。この映画のアーネストはまさにそのような人間であり、妻のモリーもまた人間であった。そこには相反する感情のグラデーションがある。受益権をめぐる政略結婚でありながら、たまたま彼女を車に乗せたことから愛が芽生えた恋愛結婚でもあった。どちらも本当で、そこには確かに信頼と愛があった。
献身的に看病をしながら薬に毒を混ぜる。
それを薄々知りながら投薬を受け入れる。
親族の死を悼みつつその殺人に加担する。
都合の良くない部分は見ないようにする。

思うに、この劇中で改心した人物は果たしていただろうか?
結局みんな自分のことばかりを気にして、利他的な行動を取る人物は1人もいなかったのではないか?

アーネストが最後にビルを突き放した行動を取るが、あれすら改心ではなく自己保身だ。その後の夫婦の会話シーンの結末が彼の真の姿を見事に晒している。
あれ、なんか怒って出ていっちゃったんだけど…俺やらかした?ねぇどう思う?と保安官の方に目をやる。レオナルド・ディカプリオ、この映画における最後の出番があの渾身の表情である。実に素晴らしい。実に人間だ。

映画というものは基本的には全部コメディだと思って観る方が楽しいし本質を突く見方ができるということに何となく気が付いてから、こんな人がいてこんなことがあったんですよやれやれ、的な冷笑スタンスを意識的に取るようにしている。いくら史実に基こうともそもそもフィクションだからね。

というわけで3時間26分長い!けれど素晴らしい1本でした。

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