備忘録

自分が忘れないためにまとめておくだけのメモ

祖母は間質性肺炎で、喘息のように息をするのが苦しくなってしまう。私自身も喘息持ちで、息の苦しさは理解しているけれど祖母の方がよっぽど辛かっただろう。私が中学生の時は酸素ボンベを付けなければ行けなかったけれどゆっくりなら1人で歩けたし、ご飯もちゃんと食べれていた。要介護、寝たきりになってしまったのは私が高校に入ったころ。寝たきりと言ったがまだ最初の方は簡易トイレに移動したり外に出る時は車椅子に座ったりはできていた。そしてだんだん、簡易トイレに座るのもかなりの体力を使わなければいけなくなり、ご飯もあまり食べれなくなっていた。

祖母が死ぬ1日前、2020年8月2日

昼頃に祖母の家へ向かう予定だったのが、母に『具合が急に悪くなったから、もう行こう』と言われすぐ向かうことに。着くと、目は開けられるもののほぼ瞑っている状態で不規則に、苦しそうに呼吸をしていた。祖父は『トイレした頃から苦しそうにしていた』と言った。母はそれに『今からお医者さんに電話するけれど、なんで苦しそうにしている時に電話しなかったんだ』と。祖父はそういう所が多々あった。”まだ大丈夫であろう”という考えることが多くて、少しその事を私も心配していた。

お医者さんより看護師さんが1人先に来た。そして肺のあたりを『骨が折れてしまうのでは?』と思うくらい、両手で何度もグッと押していた。そうすると、呼吸が規則的に安定してきていた。本当に医療人ってすごい!

そうすると、まだ少し呼吸しづらそうではあったが血圧(いつもは90近く)も最初は59くらいだったのが70くらいに回復し、目もぱっちり開いて会話もできた。夜だったし安定してよかったということで家へ帰ることにした。その時私は祖母に『また明日来るからね、おやすみねー』と言い、祖母は『はい、ありがとう、おやすみ〜』と言っていた。最後の会話だった。

そして次の日8月3日、10時頃に祖母のうちへ行くと、祖母の兄、その子供(以下おばさんと呼ぶ)、そしてまたその子供(以下姉ちゃん)がいて、母が少し泣いていた。『ばあば、意識がもうないの』と言った。ガーン!というショックはなかった。ああ、もうかという感じだった。そして部屋に入り祖母を見ると、目を瞑って不規則に呼吸をしていた。医者はもう呼んだらしいが、まだ来ていなかった。

吸って吐いて、3秒くらい空いたあとまた吸って吐いて……と息を繰り返していた。その間隔もどんどん長くなっていて、私はベッドの横に座り、既に冷たくなってきていた祖母の手をあったまれあったまれ、頑張って呼吸して!と思いつつ握っていた。間が長くなる度、皆は祖母を見つめて、名前を呼んだり頭を撫でたりしていたが、何度も何度も『止まった!?』と思うくらいの間隔の時があって焦るばかりだった。その時は祖父や母が『ばあば!』と呼びかけていた。呼吸自体も時折深く吸っていたけど、もう浅くなってしまっていた。(追記:呼吸が止まる1分前くらいの時、ひとつも力が入っていなかった祖母の手が急にありえないくらいの力で握りこぶしを作りはじめた。私はとっさに手を離してしまったけど、ずっと握りこぶしになっていた。確か直前にはもう力はなくなっていた気がする。本当かはわからないが調べたらラザロ徴候というものらしい。)


前に私は『ばあばがもし明日にでも死んでしまったら私は大泣きするのだろうか、泣かないのだろうか』と考えたことがある。私の人生で身近に不幸が起きたことが少なかった(1回目は父方の祖母の飼い犬で、火葬には言っていないけれど死んだ犬を見てかなり幼かったこともあり大泣きした記憶がある。2回目は祖父の姉の旦那さんが亡くなった時で、お通夜だけ行き、あまり関わったことがないのもあり泣かなかった。許してほしい。)ため、『自分以外の人が死ぬ』という感覚がいまいちわかっていなかった。

そしてみんなで見つめていたその時、ついに呼吸が止まってしまった。

母は1度『ばあば』と呼んだ。でももう呼吸はしなかった。74歳、病気を発症してからかなり長生きした方らしい。

初めて人が死んだ瞬間をこの目で見た。『死んだんだ』と、思った。嗚咽は出なかったし大泣きと言うほど涙は出なかった。でも祖母を見て、祖母が死んだということを受け入れられたような受け入れられないような変な気持ちになった。1番泣いていたのは母だった。母の泣いているところは、ドラマなどの感動するシーンを見ている時や大昔に喧嘩してお互い泣いてごめんねと言い合った日くらいしか見たことが無かった。でも今は『うっ、うっ、』という今までに聞いたことないくらいの母の嗚咽が。それと、おばさんと姉ちゃん、あと私の鼻をすする音しか聞こえなかった。兄と父は泣いていなかった。あとで祖父を見たら、祖父の目が濡れていた。『あんなに1番元気だったのによお』って笑いながら泣いていた。

ほんの少し時間が経って、それまでつけていた酸素マスクを外した。祖母はそれまで酸素マスクを付けてすごしていた。苦しかっただろう、やっと外すことができた。なんとなく私も嬉しかった。

そしてそこからみんなで動いた。お医者さんはまだ来なかったからとりあえず亡くなりました、とだけ連絡を入れて、近い親戚にも連絡を入れて、遺体の掃除をしてくれる業者さんを呼んで、葬儀屋さんを呼んで、自分たちのお昼を買って、etc……一旦涙が止まったからもう泣かないと思っていたけれど、祖母の顔を見ている訳でもないのに度々涙が出てきた。キッチンでも廊下でもどこでも急に涙が出てくるのが不思議で『本心は大泣きしたいのかな』とぼんやり思っていた。大泣きは今のところしていない。

最初に来たのは遺体を掃除してくれる業者さん2人。説明を聞くと、『排泄物を出して、頭と体を洗って、あと服も着せれます。もし生前に希望の服があったらそれを着せたりとか』と。そんな希望は聞いたこと無かったし、聞いたとしても”納棺する時着物をかけて欲しい”とだけしか。とりあえず鮮やかめな服を選び着せてもらった。

あと私は祖母の手を洗って、お化粧を少しだけさせてもらった。リップとチーク。本当は自分の持っている赤いティントとかキラキラのアイシャドウとか、そういうのを思いっ切り塗ってあげたかったなと思ったけど、急だから仕方ない。塗ったらとても血色がよく見えた。どうしても生きてるように見えた。

後はお医者さんが来たり葬儀屋さんが来たりした。このご時世、コロナウイルスの発生を防ぐこともあり一般は呼ばず近い親族だけですることにした。どんどん話が進んでいて、時間の進みがとても早く感じた。死亡確認をしてから3時間くらいあとのことだった。

ここまでの話のとおり、祖母はいつも息がしづらくて苦しそうだった。でも死に際は、いつもよりはゆったりな呼吸で、眠るように静かに死んでいった。みんな口を揃えて『苦しまずに死ねてよかったね、今も寝てるみたいだもんね』と言っていた。足や手は真っ白で、冷たくて、人形みたいになっていたけど『生きている』ように見えて、顔も穏やかで。何度も何度も無意識に顔を見たり触ったりして確認してしまっていた。

それに祖母は家で死にたい、延命は希望しないとも言っていたらしい。祖母の希望通りの最後で本当によかったと思う。これを書いている今はとっくのとうに涙は止まっているし、予想以上にふっきれている。

葬式が本当の最後だから、その時もしかしたら大泣きするかもしれない。それはその時また追記していこうと思う。






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