弁論に関する一考察(失望と論ずる価値)

※今回は完全なる愚痴の垂れ流しなので悪しからず


以前の投稿で、弁論の意義は「弁え論ずる事」である。と中の人は考察した訳だが弁士が弁論を論ずる価値はあるのか?というのは傲慢と思いつつも疑問に思うところである。


弁士としての中の人

(学生)弁論は競技であって、本物ではないというが私の自説である。

 その理由は、弁士の発言は実社会では相手にもされない取るに足りない物であり世の人々は弁士の話など聞かない。故に、大会という形式に縛られ話を聞いていただいている間は競技の域を脱しない。だからこそ、弁士として話すのであれば聴衆に寄り添い話を聞かせる事が最も弁論において重要である。というのが中の人が弁論を行う際に心掛けている点なのです。

※現役時の審査講評も導入から論までの運びのみが評価されていたのは私の弁論を聞いた人々は分かると思います。


結局は会話の中に弁論という手法があるのであって、つまらない話では他人を振り向かせられないというのが弁士としての私の心構えだったりする

聞く分にはメリットもない、話を聞いてもらうには相手を楽しませてナンボな訳です。


実社会と磨いた技の発揮場所


そこまで、社会経験がある訳ではないが実社会で私が磨いた筈の技を使う事があるのか?と疑問に思う事がある。

答えは、NO


 その理由は、世の中における会話の大半は対話ではなく主張の押し付けである持論があるからである。

 相手の意見が自分の意見をすり合わせて折衷案を模索する事が対話であると私は信じているが、私の生きる狭い社会では対話という体裁で自分の意見を押し付ける、対話のネジを外した人間が多い


 聞く耳を持たず、押し付け癖のある人間の為に技を使用したいとも思わなければ、彼らの為に再び声を荒げようと思わないのである。


 昨年、相互理解を理念に掲げた弁論を認めていたが価値観を根底から覆される様な仕打ちを受けた為、原稿が闇落ちし相互理解は不可能という主張に変わってしまった。


この、価値観を再び変えることの出来る様な邂逅が訪れるという淡い願いを持ちつつ投稿繰り返していたりする。


狭小な認識と現実の乖離に打ちのめされ、心を手折られかけている様な3流弁士は自分を弁えられる日は果たして訪れるのでしょうか?








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