弁論に関しての一考察(野次と弁論)
お久しぶりです。ネタ切れと忙しさに感けて投稿が遅くなりました。
以前の私の投稿である。(弁論の意義)に関してのご意見として
私が指す弁論は、アリストテレスが分類した3つの内の演説的(大衆)弁論の想定であり、(大学)弁論は議会弁論に近いものであるから論理性も担保すべきという物でした。
お答えします。(弁士スマイル)
なぜ、大学弁論は演説的なのか?
あくまで、私の意見ではありますが(大学)弁論は議会弁論と評されるほど厳選された聴衆に審査・判断されないからであると考えているからです。
学生審査員・審査員審査の双方で適切な判断基準の統一がなされて無い事が最大の原因であると考えます。
そして、聴衆の性質として正しい知識と見識を全員が共有しているわけでは無いため、知識と人格に優れた詭弁家に対しての対抗策が無い為です。
野次と大衆化
(大学)弁論の特徴として野次があります。
最近の大会ではめっきり聞こえなくなりましたが、野次というものは弁論の質を下げることも引き上げる事も可能であると中の人は考えている。
仮に弁士が自ら起こった被害を元に悲劇的導入を用い聴衆を誘導したとする
中の人は迷わず、それを妨げる野次を行う。
中の人的には、同情で説得を促すような軟弱な弁論は聞くに堪えないので聴衆にその意思表明として意図的に野次を飛ばす
(大学)弁論が、仮に議会弁論のような高尚な物であれば同情を誘って聴衆を説得するようなピエロ弁士を看破できるはずなのである。
だが、実際はどうであろうか?
大会出場者の審査員講評を読めばわかるがふざけた代物も数多く存在する。
私の見たもので最も酷い講評の要約は「元気があってよかった」である。
※実際は3行程度でした。
※まともな審査員講評も存在しているが、配点は基本は同じ
達筆(笑)で書かれた(書き殴られた)講評(落書き)に一体どこまでの価値があるのだろうか?
前にも書いたが基本的に(大学)弁論大会の審査員は部内OB・OGから選ばれどのような内容でも文句を言うことの出来ない歴史的故のふざけた配慮がある。
善意で、審査して頂いているので仕方ないのだが厳正な審査基準を設けるのであれば自大学の何も知らない教授や専門家を金を払って呼ぶべきであり。
売名なり、曖昧な基準を持つ老人からもらった講評にはスーパーマーケットのお客様の声程度の価値しかない。
審査基準もザル、聴衆のレベルにも差があるような現在の弁論大会は議会弁論の様なロジックを競う場では無くウケの良い弁論を行う方が必然と勝率が上がる
現に中の人は大会のテーマを「養育費→児童教育→受動喫煙→パチンコ」
とシフトを変えたら入賞のハードルは大きく下がったのは言うまでもない
後半、2つが入賞
※変に、小難しい社会問題を扱うよりもワイドショー的なテーマをジョークを交えながらユーモラスに話した方が新規性(笑)と独創性(笑)が出て良いらしい
このような、現状があるため中の人は新規性と独創性を排除すべく野次る
※因みに、野次で注意されたことは無いです。(野次規定がザルなので仕方ないね)
無論、品位を欠くような野次は弁論の質の低下(議会弁論から演説的弁論化)を招くので控えるべきだが弁論大会の質自体が低質化・陳腐化していて改善策が打たれていない現状では無関係だと考えます。
弁論の意義やら大会の意味・全体の在り様をコロナで停滞している間に検討しなけれら、後期にズレ込んだ新歓と大会ラッシュで新規部員の定着が困難になり次の10年はないと思いますね。
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