弁論に関する一考察(意味の無い弁論)
先日より、中の人が対象とする弁論の種類・概要・意義についてザックリではあるが書いてきた。
本日は、聞く上でも話す上でも価値の無い弁論について考察しようと思う
価値の無い弁論
(大学)弁論で価値がないと中の人が個人的に考える弁論の要素を纏める
・ロゴス・パトスが共存しない弁論
・エートス無視の弁論
・弱者救済弁論
・弁論弁論
の4つである
ロゴス・パトスが共存しない弁論が無価値な理由
弁論を習う際に
「導入→理想社会像→現状分析→問題→原因→解決策→締め」
という順序で大体は指導を受けると思う。
現状分析〜解決策ではロゴス(論理性)
導入〜理想社会像・締めでは弁士のパトス(熱意・感情)が表現される。
大学や演練指導者によって、比率差はあるが共存しているものが弁論であり
そこに、大学生が弁士として登壇する価値があると中の人は確信している。
昨今、論理性だけで勝負を付けようとする風潮が弁論界に存在すると中の人は感じているが、所詮大学生が論理武装をして聴衆を説得しようと試みても誰も聞く耳を持たないのが現実である。
論理性のみで説得を試みようとする部員が増えたのは、各弁論部が本物の弁論を行わなくなったからであると考える。
弁論大会で行われる弁論はあくまで競技でありただの馴れ合いである。
※審査員の質が担保されていないと思う人もいるかも知れないが、現実はそのような物である。あらゆる、審査が適正な資格を持った人間によって行われることの方が稀有なことである。将来、貴方の就活担当も国家資格を持たない人事課の人間であり評価基準はバラバラであり、組織における評価も成果を含めた上での人間による評価である。(審査基準がザルで曖昧な物に、自分の成果物を委ねるのは当然のことなので疑問を持たない方が楽だと思います。)
例えるなら、真剣と竹刀における技の競い合いである。
街頭で少人数遊説でもしたら分かる事だが
一個人の話に足を止めて聴く程の価値は本来はない。どんなに、正しい事を雄弁しても訳の分からない宗教関係者や乞食のような人間にすら嘲笑されるのが関の山だ(新宿駅やキャンパスで一人で原稿を読み上げたら分かる筈だと思う)
現実で弁士を取り巻く聴衆は無関心という刃物を携帯していると言って良いだろう。
だが、弁論大会や集団で行う大規模な遊説はどうだろうか?
大会であれば、観客席で見知った弁論部員と競技経験のあるOBが審査員
部で行うような大規模遊説は自陣に帰れば同部の部員に紛れて気持ちを落ち着ける事ができる。
正直、言って質問や野次によって相手にされている内は競技弁論である
だから、こそ聴衆が耳を傾けるように精神に訴えるよう努力すべきである
エートス無視の弁論
弁士が行う弁論に価値があるのは競技の場である大会のみであるが、この前提に甘んじて聴衆や運営を意図せず小馬鹿にするような弁論
これは、最も低俗でありくだらない弁論である。仮に、弁士が意図した形式だとしてもそれが聴衆に理解されなければ無意味である。
中高生がYouTuberの真似事をして警察のご厄介になるのと本質的には変わらない。
ボケるならボケる、弁士として役に成り切るのであれば、壇上の出来事であると聴衆に分からせるのも弁士の技量である。
(落語家が蕎麦を食す表現にリアリティを求めるつつ、演じるのと似ていると思う)
ここまでの2つは競技であっても甘えを捨てて、実際に全ての人間を説得できるように精進すべきというのが中の人の考え
弱者救済弁論
感情と論理の共存が弁論の必須条件であるが、同情を誘って聴衆の説得を試みる弁論も醜悪で無価値である。(24時間テレビで障害者を踊らせて募金を集めるくらいには醜悪)
中の人は、弱者救済弁論を行う弁士には、「何故、弱者を救済する必要があるのか?」と質問を必ず行う
可哀想だからなどいう感情論から脱する事が出来ていないと判断した場合は問答無用に理念に最低点をつける。(演壇に立てば1点は入れます。)
自分語りにはなるが、中の人は母子家庭出身であり、DV被害、痴漢被害、親の自殺シーン(今では元気に生きています。)まで生で見た事がある。
様々な人の助けがあり、ここまで太々しく怠惰に生きていられる事には感謝しているが、奇特な方を除いては親類すら同情もしてくれなかった
中の人から見ればそれが当たり前なのです。
誰しも可哀想という理由で動くわけではない、道にいる野良猫を一々拾って帰れない様に、それが道理です。
同情は確かに容易く得られるが説得材料にはなり得ない、(論理と感情が共存する話術である)弁論を行う弁士であれば可哀想な人間が放置される現状が論理的にどのように損失かを論じスマートに説得を試みなければ、10代女子のポエムと大差ない。
弁論弁論
弁論に関する意見を述べる弁論はこれもまた無意味です。
「弁論は人格の発露である」という言葉がある(これを、声に出す某部員で実践できている人を見た事がn)弁論は弁士の心に咲いた花のようなものであり、形式や内容に縛られないからこそ美しいのでこれを弁論を用いて理想の弁論を提言するような弁士は弁士である資格はない。
あくまで、レセや仲間内での酒の肴にするのが嗜みだという事は心に留めて欲しい。
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