福ちゃんと島ちゃんの故郷を訪ねる旅 ~希望⑦~


とみ子さんの案内で行かせてもらったのは
飯舘村の南部、帰還困難区域の長泥地区に隣接し比曽のなだらかな小盆地に住んでいる菅野義人さんの自宅。

菅野さんは原発事故前、稲作と和牛の繁殖を営んでいたそうで自宅裏に今は使用されていない大きな牛舎がありました。ここが山梨へ避難した飯舘牛の福ちゃん、島ちゃんが生まれた場所。

家の前には綺麗な緑が広がりおだやかな空気が流れていた。福ちゃんと島ちゃんに会ったのは1度だけなのに、生まれたばかりの小さな福ちゃんと島ちゃんが想像できた。

のんびりとしていて穏やかなこんな素敵な所で生まれ育ったこと。後から知る菅野さんのような優しい人に育てて貰っていたことを知り嬉しくなった。福ちゃん島ちゃんをさらに身近に感じられるようになった。

到着してすぐ、つなぎを着た男性が仕事を中断しきてくれた。その方が菅野さん。自宅へ案内してくださり、お茶をいれてくださるというので台所でお手伝いをさせて貰いながら「素敵なお家ですね。」とお伝えすると「ここは4代前の先祖が建てたんだよ。1780年代に天明の飢饉というのがあってね。僕の先祖はそのなかで生き残った1戸なんだ。」と教えてくれた。

菅野さんは避難した時の話をしてくれた。
原発事故後も避難先から通って牛の世話をしようとしたけれど認められず牛たちを手放さなくてはいけなくなったこと。村の全村避難が決まり村を出て避難先へ向かうとき、何度も車を止めて村を後にすることができなかったこと。一緒に暮らしてきた牛を手放し空になった牛舎を見たときには1週間ほど何もやる気になれなかったこと。

なかでも「天明の大飢饉」で菅野さんの先祖は生き残り、復興に尽くしたことを繰り返し教えてくれ、先人の苦労を思えば乗り越えられない苦労は無いという強い思いを感じました。

菅野さんのお話が掲載されているので、ぜひご覧ください。
避難解除指示後の飯舘村 → https://blogos.com/article/272730/

菅野さんと再会を誓い、とみ子さんの車へ乗りこみ自宅へと向かう。とみ子さんの旦那さまのことも昔からよく知っていた菅野さんは、何度もとみ子さんを励ましていた。そのやりとりを思い出したのだろうか。とみ子さんは涙が止まらないようだった

車窓からは青い空、そして青々とした緑の野原が広がっている。「この緑、本当に綺麗。」車を運転しながら涙声のとみ子さん。その隣で「本当に綺麗ですね。」と、私は気がつかないふりをしながら、そう返すのが精いっぱいだった。

諦めてもおかしくない状況になっても、目の前が真っ暗でも、泣いてでも、先が見えなくても困難にぶつかっても起き上がろうとする、立ち上がろうとすることをなんて言うんだろう。

そうだ。気概だ。

菅野さん、とみ子さん。気概も、慈悲深さも、眼の色の深さも二人は似ていた。飯舘の希望だ。

そしてもうひとつ。なんだか皆が繋がったような気がした。福ちゃん島ちゃんの故郷で。

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