東のビッグオバ


「東のビッグオバ」とは、関東在住の母方の父方の叔母である。決してこの表現はまちがえているわけではなく、私視点で言えば「母方の祖父の兄妹」と言う意味である。私の母視点で言えば「叔母さん」であり、つまり私にとって「大叔母さん=ビッグオバ」というわけである。

今回は、そんなビッグオバについて、ここに書き留めておきたいと思って久しぶりに筆を取った。


東のビッグオバの出身は九州。学生時代は当時の女性で稀有な優秀さを誇ったらしい。県内の名門中学、高校を出て就職して結婚し、関東某所に移り住んだ。住まいはどえらい急斜面と至る所が坂道だらけと言う点以外を除けば実に閑静でステキな住宅街の中にある。ビッグオバは、主人と海外旅行に行ったり、趣味の刺繍を楽しんだりと、穏やかながら慎ましい生活を送っていたらしい。

そんな仲睦まじい夫妻の生活は、私が生まれるずっと前に一変した。ご主人が急死したためである。夫婦の間に子どもはいない。

それからビッグオバは、私が生まれるずっと前から——約30年間、一人で暮らしてきた。

ビッグオバは約30年一人で生活しているので、一人暮らしの玄人だった。自主返納するまでは車で買い物に行き、その後もどえらい坂道を歩いて登り降りし、買い物に行っていたらしい。掃除洗濯家事全般を一人でこなし、毎週かかさず大河ドラマをチェックし、柿が好き。電球だって自分で取り替える。
私はビッグオバに関して、「声」しか知らなかった。というのも母が、ここ数年、毎日ビッグオバに電話をかけていたのを横で聞いていたからである。

ビッグオバになぜ母が電話をかけ始めたのかを今となっては思い出せないが、側で聞いているだけでも心配な事案が何度かあった。心臓の大手術や階段から落ちて肋骨骨折、同じ話を何度も繰り返す痴呆の気配。でもあんぽ柿やちょっとしたお菓子を母が送ると、電話越しに「あらいいのよぉ、いつもありがとうねぇ」と言い、必ず百貨店かどこかでゴーフルやらクッキーやらのお返しを送ってくれたマメで誠実で溌剌なビッグオバ。なんとなく「良い人なんだろな」と思っていた。ただ確かに一年前くらいから、毎日電話しているのに毎日同じ話をしている様子だった。電話の相手をする母は勿論、側で勝手に聞く私でも不安な感じがあった。




そんなビッグオバが、先日亡くなった。



電球を取り替えようと机の上に登ったところ、落ちて大腿骨を折ってしまった。そこから、寝たきりの生活になってしまったのが発端だったと思う。

その際に、ビッグオバの体を癌が蝕んでいたことが発覚した。膵臓、リンパ、もう1箇所脳か肺か、……とにかくもう、いつ。そんな状態だったのだ。

高齢で手術も治療も難しい。それを聞いたのは昨年末。約1ヶ月だった。


ビッグオバの訃報は、静かに、私の伯父すなわち母の兄から母宛に届いた。伯父がビッグオバの後見人として入院の手続きやケアワーカーやヘルパーとのやりとりを担っていたからである。私にとって、去年の秋までは時々電話をしていた気がしたので、急だなと思った。年明けまでは病室で普通に会話もしていたらしい。それでもクリスマス前くらいから不穏な気配がちらついていたことは母伝いに聞いていた。急だけど、遂にかと思った。その時が来たのかなと。

伯父から随時情報が入っていたのには別の理由がある。コロナのご時世と、ビッグオバの兄弟がほぼ先立っていたこと、ビッグオバに近い人も皆遠い九州なことがあり、「骨の拾い手がいない」という理由で、私は妹と共に葬儀に呼ばれる手筈になっていた。


1月某日某所、火葬場も兼ねた斎場は、日常から切り離すように遠い場所にあった。朝から夕方まで、びっしり埋まった部屋と火葬順がモニターに映っていた。これは伯父に後で言われたのだが、火葬の予約が埋まっていたせいで、ビッグオバの場合、亡くなった日から葬儀まで8日を要した。

ド派手な葬儀もなければ、祭壇もない。そんなお別れの儀式は、20+n年間生きてきて、5、6回様々な形式の葬儀に参列してきて、初めての経験だった(物心つく前にも参列したことはあるらしい)。


冬の淡い快晴の下を、僧侶と係員の後ろについて歩いた。参列者は喪主の伯父、母、私、妹、ビッグオバのいとこかめいか……の夫婦。もはや私は会ったことのない人だった。総勢5人。ビッグオバは静かに眠って待っていた。棺はすでに「扉」の前にいて、一行を迎えた。頭と脚の近くには花の山が積まれていた。

ビッグオバ、大叔母さんのお顔は、もう十数年前に亡くなった祖父の最後の顔に似ていた。骨格がよく似てるなと思った。

「皆さんでお花を入れてください。入れたいお品物があれば今お願いします」

花は、5人だととても一巡二巡では置ききれず、途中から皆、花を束で掴んで置いていった。鷲掴みでも終わらない。母は柿を持参。丸くて水分のある生モノは破裂の危険があるからと、切れ目を入れておさめられた。

全身を色とりどりの花で彩られたビッグオバ。棺は閉じられ、「扉」が開かれる。

ゥイーーーーーーーンとフォークリフトのような運搬車が、棺を正確に動かす。開かれた「扉」の向こうは薄暗く、いつ見ても冷えた気持ちになる。現実的にあれが死者を送るエレベーターなんだろうなと思う。次に出てくる時は骨になっているのだ。ボタンは確か喪主が押したと思う。扉が閉まる。焼香をし、僧侶によって経が読まれ、あとは焼けるまで待つばかり。まるでDELISH KITCHENの動画のようなスムーズな流れに、思い出せる出来事が想像以上になかった。それくらいあっという間にビッグオバとお別れしたのだ。遺影の笑顔に、私は見覚えがあった。見たことがある人だと思った。だが、その最後の姿はとても小さかった。こんなに寂しくていいのかと、少し罪悪感に駆られた。


ビッグオバは約1時間で骨になった。ほぼ初対面の一堂は気まずくもビッグオバの話でそこそこ盛り上がった1時間が過ぎ、収骨に。病魔に侵された骨はほとんど原形を失っていた。例えば今私が焼かれたらどんな形で現れるのだろうと思いつつ、ここもローテーションで拾い上げていく。お骨は灰もすべて綺麗に壺に収められた。それが良いなと私は密かに思った。遺骨がすべて入れられず、主要な骨以外は火葬場でまとめて処理される場合もあるからだ。喉仏は残っていた。記憶のある限り4人目に見たが、喉仏は本当に小さな座仏像のようだから人体は不思議だ。

すべて終わるまで、確か2時間だったと思う。風のように葬儀は終わった。



ビッグオバは、どえらい坂に囲まれた閑静な住宅街の家に帰宅した。身寄りが近くにいないため、家の中は最後に生活したままの状態だった。洗濯は干したまま、畳みかけのまま。冷蔵庫のものもそのままで、介護用ベッドが置かれていたらしいスペース以外、すべてにビッグオバの生活が残されていた。私たちはゴミを捨て、冷蔵庫の整理をし、洋服を畳んだ。ビッグオバはご主人の隣に帰ってきた。焼けずに残った指輪も置かれた。仏壇では母が生前送った柿がぶよぶよになって残されていた。

リビングにかけられたお薬カレンダーが目に止まる。12月頭は朝昼晩全てなくなっていた。12月10日くらいはなくなっていたり残っていたりしていた。12月半ばで時が、ピタリと止まっていた。小分けされた薬がびっしりと入っている。この家の時間はそこで止まった。そして二度と動かないかもしれない。

ビッグオバが何十年と過ごし、最後の直前まで過ごしきったこの家を引き継ぐ人はおそらくいないそうだ。伯父は「しばらく空き家になる」と言った。片付けと簡易の仏壇を作り終えたころには夜になっていた。どえらい坂道の、車のすれ違いもギリギリな家の前に立ち、門扉を閉める。人が死ぬことは、生まれると同様に手間と時間がかかるのだ。人間はなんて面倒な生き物だろう。死にたがりの私は思った。






それから時間は流れて、納骨のために九州に行ったのがつい数日前のことである。

滅多に東京に行くこともないだろうと、前乗りついでにちゃっかり劇団四季でアナ雪を観て感動し涙した翌日、伯父とビッグオバと私は関東から九州に飛んだ。

納骨にはビッグオバの妹と従兄弟が来た。遺影の笑顔と瓜二つの妹さんに、母と妹は「母(施設にいる祖母)に見せます」と記念撮影していた。骨格の遺伝はすごい。

2歳の孫に「じいじ」と呼ばれる住職とその息子による経があげられた。「じいじ」は経をよんだあと、ビッグオバのことを話した。説教というんだっけ?

ビッグオバは毎年年賀状を寺に出していたらしく、それが途絶えたことで「もしかしてと思っていたんです」。そう「じいじ」は言った。本当に律儀で、聡明な方だったんだなあと思う。字も綺麗で「達筆すぎて読めない」らしい。確かに家に届いた荷物の字も、書道の師範代である祖母の今の筆跡よりしっかりしていた。人の言葉の話よりも、行動の話の方が、第三者が聞くときに説得力があるものだ。「この人はすごいんだ」「勉強ができた」と言われてもピンとこないが、「この人は東大に行った」「毎日12時間勉強していた」と言われれば誰もが頷くように。

葬儀では回れなかったゆかりの地を巡る道程で、普段滅多に人のことを褒めたりしない伯父が、「この人は凄い頭が良かった」と言った。「時代が違えば有名な大学に行っていたし、行きたがっただろう。今みたいに好きなことができた時代じゃないから、働いただけで」


江戸時代くらいから続いているという代々のお墓に、ビッグオバは還っていった。寺の庭に咲く桜が時折強く吹く風に舞い上がる。4月並みの陽気。静かで優しい旅立ちだった。




そしてわたしは今月中に、また九州へ行く予定である。

東のビッグオバの葬儀が終わり帰ってきた翌日訃報を受けた、西のビッグオジの納骨のために。




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