誰も指摘しない教育のタブー「子供の格差」を引き起こす親の経済力以外の"ある要素"

なぜ、教育格差はいつまで経っても解消されないのか。格差は一般的に親の年収の差=家庭の貧富の差と見る向きもあるが、「教育格差の真因は親の所得格差ではなく“別の理由”という議論が活発。

議論の渦中では、東大卒の普通に勉強していたら、合格した。とのコメントが議題となっている。
毎日塾に行き、家では家庭教師を雇い、青春時代のすべてを勉強に捧げたからどうにか東京大学に入れた――という、重い覚悟と犠牲を支払うステレオタイプな「ガリ勉」のロールモデルではなく、もっと軽い雰囲気で「それなりに勉強したら結果がついてきたから」という状態も多い。

教育格差の問題について考えるとき、「親の経済力によって受けられる教育投資の差によって生じたものだ」というわかりやすい物語だけでは見えない部分があまりにも多い。

結論を述べれば、「貧しい家庭は十分な教育投資が受けられない」だけではなくて、「貧しい家庭には、貧しさと同じかそれ以上に受けられる教育が乏しくなる“べつの理由”がたくさんある」からこそ、結果的に教育格差が発生してしまう。

別の理由の一つとして、貧しい街の貧しい家のほとんどでは、まず机がない。家のなかに「机」と呼ばれる家具が存在しない。勉強するための静かで落ち着いた部屋もない。家は勉強とは関係ないもので溢れかえり、その家庭では「机に向かって集中して勉強する」という“発想”それ自体を持っていないといっても過言ではない。

貧しい人びとが暮らす街の日常生活のなかには「落ち着いて腰を据え、集中して勉強する」という概念自体がないのである。貧しい街にある貧しい家庭では、「勉強する」という営みは、自分たちの認知的枠組みのなかには含まれておらず、自分たちの生活や認知の「外側」にある逸脱的な行為として位置づけられている

机もなければ本棚もないような家の子供が、健全な学びを提供しているYouTubeを起動させたときだけ集中力を発揮して誘惑にも負けず勤勉になるということはありえない。

教育格差とは純粋な意味で「貧しさ(親の所得格差)の問題」という部分はもちろんある。しかしそれ以上に、その家庭に貧しさをつくりだした「慣習」や「文化」の問題である。

給与所得や金融資産などの経済的な格差は計量的・統計的に把握することが可能。しかしながら、慣習や文化や概念といったものは統計的に記述することができないため、そこに格差があるとしても、図やグラフによって客観的に可視化することが困難。

かりに貧しい家庭に一律の経済支援を行ったとしても、あるいは勉強机を支給したとしても、その家庭の子供の学力向上にたちまち貢献するかは微妙。たしかに「貧しさ」は教育格差の原因であるが、同時に文化や慣習によってもたらされた最終的な結果でもあるからだ。

しかしながら「貧しさはカネがないことと同じかそれ以上に、貧困層に共有される慣習や文化こそが原因だ」――と述べることは、現代社会では差別主義者として非難されるリスクをともなう。そのため「教育格差」の問題の核心部を理解している人も、自身の社会生活を危うくしかねない不名誉なレッテルが貼られるのを恐れて「各家庭の経済格差や貧困をなんとかしなければいけませんね」とお茶を濁す。

それではいつまで経っても「教育格差」の表面的な部分を撫でるだけに終わってしまう。不道徳で「ただしくない」発言を見つけたら、大勢で寄ってたかって非難してたちまち炎上させるSNS的なコミュニケーションが、核心に迫る議論を委縮させている。

貧しい家庭の子供たちが思うように勉強ができず、学力が伸び悩んでしまうのはなぜなのかという問題について、世間から怒られたくない我が身可愛さのあまり「お金がないから」という、なにも言っていないに等しい無難な議論で終わらせていては、根本的な解決を見ることはない。

⇨今まで見てきた、教育格差は建前を見ていたようだ。本質的な問題は、家庭環境によるところが大きい。それを慣習や文化と呼ぶ。
また、本音を唱えた場合は、従来以上に批判が行われる(SNSにより、その規模と、効力が大きくなっている)その為、良い子を演じる限り、問題の解決は進まないのだ。そもそも、悪者を演じてまで、人の手を差し述べる人(活動)を行う人がどこまでいるのかも問題である。

#教育格差 #貧困層 #子供の格差 #貧しさ

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