続々々々・どんぐり王国のお姫さま

 邪気祓いもあらかた済んだ節分の夕暮れ、表参道の美容院のベンチでエミール・ゾラの『ナナ』を読んでいると、木野瀬らくがゴディバの小さな紙袋を提げて店のドアベルを鳴らすのが見えた。

 僕は半額クーポンの半券を本に手挟むと、担当の手が空くまで推しの様子をのんびり観察することにした。僕はリスナーの鑑なので配信外で推しに話しかけたりはしないが、とにもかくにも、美容院の待ち時間というのは手持ち無沙汰なものなのだ。らくさんはやはり僕の存在に気がつくことなく担当のカラーリストとカラーパレットを吟味し始めた。

 らくさんは今日も僕らの目を引く――いや、道端ですれ違った誰もが振り返るほどの――素敵な女の子だった。ニット帽を被った亜麻色の髪の緩く巻かれた毛先がライダースジャケットのなだらかな胸の稜線に沿って揺れている。リジットデニムのジーンズと無骨なエンジニアブーツの組み合わせは普段のイメージと比べ随分辛い。

 しばしのち、僕と担当のスタイリストがカンガルーの赤ちゃんの話題で盛り上がっていると、正面の鏡に推しの後ろ姿が映り込んだ。推しはトイレのドアの前を通り過ぎて「STAFF ONLY」という掛札の掛かったドアの先へ消えていった。

 僕は支払い後にトイレを借りるふりをしてらくさんが消えたドアをそっと押し開けた。奇妙なことにスタッフの姿は一人も見当たらない。給湯室のコンロでやかんが甲高い音を立てて湯を沸かしていた。洗濯室では無数の洗濯機が低い振動音をあげている。備品室の棚の抽斗にはパーマ剤やカラーリング剤がきちんと種類別に整理整頓されていた。

 らくさんの姿はこつぜんと消えていた。

 僕は冷蔵庫や洗濯機や備品棚やその他ありとあらゆるドアや抽斗を片っ端から開いて回った。冷蔵庫には来客に出すお茶やコーヒーが入っていた。洗濯機の中身は全部タオルだ。備品棚の抽斗を開くと色とりどりのロッドががらがらと音を立てた。

 僕は休憩室のソファに座って天井を見上げた。蛍光灯が目の痛くなるような白い光で部屋全体を明るく照らしている。空調設備の室外機が発する低い唸りがかすかに聞こえた。ひゅう、と隙間風の音。

 僕は立ち上がると壁をコンコンと叩いて回った。音が少し違う場所がある。試しに壁の足元の部分を思いっきり蹴るとバカッと壁がこちら側に開いた。溜まった髪の毛を捨てるダストシュートだ。手をかざすと風が通っている。風からは湿った石の匂いがした。

 僕は思い切って足からダストシュートに飛び込んだ。ザザザ、と真っ暗なトンネルをしばらく滑り落ちたあと、路地裏の街角に設置されたゴミ箱に放り出される。僕は外套の埃を払って暗く狭い曲がりくねった路地を手さぐりで進んだ。曲がり角の向こうからやけに賑やかな音楽が聞こえてくる。表通りの喧騒をそっと覗き込んだ。

 王国の夜に七色の花火が瞬いた。

 夜を彩るガス燈の灯が綺羅の衣装で着飾った仮装行列の仮面を宵闇にあやしく浮かびあがらせる。ペスト医師、死神、踊る骸骨……仮装の種類は様々だ。

 乞食のひとりが懐から金貨をばら撒くと、いかにも豪奢な衣装に身を包んだ王侯貴族がわあっと歓声をあげて石畳の小路に這いつくばった。めっきの王冠を戴く小さな王子が「もっとくれよ!」と乞食に金貨の続きをねだる。乞食たちはやれやれとお互いに顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。

 今夜は謝肉祭の夜なのだ。

 僕は酒瓶を抱いて酔い潰れていた男から仮面と衣装を拝借すると、中身がたっぷり詰まった酒瓶もこっそり拾って何食わぬ顔で仮装行列に紛れ込んだ。突然の闖入者の素性を気に掛けるものは誰もいない。僕はいたずら好きな妖精たちや見るも恐ろしげな怪物たちと一緒に花火が瞬く夜の街を列をなして歩いた。

 仮装行列はある通りに差し掛かると急速にその数を減らした。過度な装飾が施された悪趣味なネオンの街並みだ。目抜き通りの左右に軒を並べる紅楼の屋根は桟瓦葺で、路地の奥には謎の干物を吊り下げた得体の知れない妙な薬屋の類がひしめき合っている。
 
 異国の文化が根付く「異人街」なのだ。

 屋根の高い紅楼の窓から仮面を被った女たちが仮装行列に向かって誘うように手を振ると、行列は一人、また一人と数を減らした。地階に面したショーウィンドウに目をやると仮面の女がドレスから伸びる足を組み替えて「ハァイ」と手を挙げた。僕は「こんばんは」とお辞儀を返した。

 仮装行列はネオン街の目抜き通りを練り歩く一番最後の突き当りにある一段と豪勢な紅楼へと吸い込まれて消えた。ロマンチシズムを盛大に勘違いした疑洋風建築とでも言うべき摩訶不思議な建築様式だ。僕はバイエルン王ルートヴィヒ二世のノイシュバンシュタイン城を思い浮かべた。軍事拠点の「要塞」でもなく外交拠点の「宮殿」でもない純粋なロマンからなる「夢のお城」だ。紅楼全体を装飾する黄金と唐紅の取り合わせは豪華絢爛というより俗臭粉々の趣がある。分厚い看板には「油屋」の屋号が読めた。僕も百鬼夜行の流れに相乗りして紅楼の門をくぐった。

 紅楼に入ると、人の流れは二つに分かれた。男女のペアは玄関広間の左右の階段を登って階上へ静かに消え、他の独り身たちは正面の扉の先へと消えた。正面の扉の前には正装に身を包んだ「蛙」が二人一組で目を光らせており、入場する資格を持たない招かれざる客たちを丁重だが取り付く島もない冷ややかな態度で追い返していた。

 僕はさっき拾った酒瓶から喉を焼く安い酒を少し飲むと、蛙の二人組に軽く手を振った。蛙の二人組は仮面の下から二人揃ってうっとうしそうな視線を寄越した。僕がトイレの場所を尋ねると、片方が「あちらです」と答え、もう片方が黙って廊下を指差した。

 トイレの個室では給仕の格好をした男が便器に顔を突っ込んで気絶していた。僕は彼の首の後ろを掴んで便器から引っ張り上げてやると、酒臭い胃の内容物をしこたま吐かせ、お仕着せを剥ぎ取って着古した衣装と交換した。洗面台の鏡の前でギュッと蝶ネクタイを結ぶ。仮面を取り替えるのも忘れない。

 トイレを出たあとすれ違った別の給仕に「どうもお客様が倒れたみたいなんだ」と言って医者を呼びに行かせ、彼が持っていた銀盆とシャンパンとを代わりに引き受けた。僕は給仕のお仕着せに身を包み、左腕にアームタオルを、右腕に銀盆を持つと、背筋を真っ直ぐ伸ばして絨毯の敷かれた長い廊下を一定の歩調で歩いた。玄関広間の扉の前で例の二人組の蛙に無言で頷く。彼らも沈黙を守ったまま頷き返した。僕は蛙の二人組が押し開く扉の先へ口笛とともに足を踏み入れた。

 大規模な舞踏室だ。市民体育館の倍ほどの広さもある広大な空間に入り乱れる綾羅錦繍を吹き抜けから吊り下げられたシャンデリアのぎらつく灯がらんらんと照らしている。会場の隅々に至るまで煙草の胡散臭さと香水の危うさとが充満していた。地階の一段と高いステージで室内楽団による華麗な演奏が行われてはいるものの、仮面の下から眼光炯々とダンスのペアを物色する紳士淑女が音楽の音色に耳を貸すとは残念ながら思えない。

 悪徳と退廃が猖獗を極める仮面舞踏会の俗っぽい雰囲気に亜麻色の髪が躍っていないことを確認してほっと胸を撫で下ろしていると、傍らのテーブルで紳士が「おい、君」と僕を手招きした。僕は手持ちの表情からその場に相応しいものをいくつか見繕うと空っぽのグラスに溢れるほどのシャンパンを注いで回った。

 何度目かの給仕でお辞儀をした拍子に、どん、と誰かと肩がぶつかる。僕が「失礼」と振り向くと、仮面舞踏会には不似合いな少年が「いや」と床に落ちた仮面を拾い上げた。小姓のお仕着せを着た端正な顔立ちの少年だ。真っ直ぐ伸びた黒髪を肩の高さで水平に切り揃えている。少年は仮面を被り直すと「いずれまた」と言い残して舞踏室の人混みの中にかき消えた。僕は酒切れの紳士に呼ばれて彼らの虚栄心をいっぱいに満してやる作業に戻った。

 酒瓶の中身が底を突く頃、例の二人組とよく似た「蛙」が泡を食った顔で舞踏室に飛び込んできた。彼らは給仕の仮面を片っ端から引っ剥がすと「こいつか」「いや、違う」とお互いの顔を見合わせた。僕は酒瓶と銀盆をそのへんに放って「STAFF ONLY」と書かれたドアを背中で押し開いた。ドアと廊下をいくつか経由した先から舞踏会とはまた別の活気が聞こえる。僕は適当なドアの隙間から中の様子を覗き込んだ。

 カジノだ。舞踏室に勝るとも劣らない豪華絢爛な装飾が施された会場を闊歩するバニーガールたちが鼻の下を伸ばした客に気前よくタダ酒を振る舞っている。ルーレットの円盤をボールが転がる音。スロットマシンのランプが点灯する光。ディーラーのシャッフルを見守る博徒の息遣い。勝利の歓声と敗北の悲鳴が、次の勝負であっという間に逆転する。

 僕は身包みを剥がされた客に「よかったらどうぞ」と着古したお仕着せを羽織らせると、どさくさ紛れに仮面を交換した。今まさに勝負に夢中な他の客の足元からこぼれたチップを一枚拝借して「さっきの服を取り戻したい」とテーブルに戻ったふりをする。ディーラーはカードをシャッフルしながら「帰り道で幸運を拾われましたか」と僕に微笑んだ。僕はお仕着せを羽織ったさっきの酔客へ視線で注意を向けた。ディーラーは僕の言わんとしたことをただちに察してくれたようだった。勝利の女神が微笑む気配がした。

 不思議なことに僕はトントン拍子に勝ちを重ねてさっきの酔客の負けをあっという間に帳消しにしてしまった。ディナージャケットとベストを着て皮靴の紐を締める間、カジノには「おれじゃない!」という悲鳴と「嘘をつけ!」「ごまかされんぞ!」という怒声が交互にこだましていた。僕はディーラーから象牙のステッキを受け取ると会釈して別れた。ディーラーも「良い夜を」とにこやかに会釈を返した。

 カジノを出る前に「蛙」の一匹に「いったい何の騒ぎですか」と尋ねてみた。すると、蛙は「いや、とんでもないことです」と腕を組んだ。

「何者かが魔女の契約印を盗み出したんですな。しかも、噂じゃ使った形跡があるんだとか。もしそうなら今夜中にも判子を取り戻して書類の改ざんを正さんことには女たちの年季が……ああ、徹夜仕事だ!」

 僕は適当な返事をしてカジノから玄関広間に戻った。受付の「蛙」は僕の仮面と象牙のステッキを見ると愛想良く部屋の鍵を渡してくれた。僕も愛想良くお礼をして階段横のエレベータに乗ると昇降装置のレバーを引いた。エレベータが上昇を始めたのを見計らってシャツの懐から大理石の判子を引っ張り出してしげしげと眺める。さっきの少年からぶつかった拍子に押しつけられたものだ。試しに軽く振ってみると内側から何か魔法の気配がした。僕はいったん判子をしまうと廊下にズラッと等間隔に並んだドアから自分の部屋の番号を探した。

 部屋は高層階のスイートだ。エントランスの正面にリビングとダイニングがあり、右手側にバスルームとベッドルームがある。左手側にはかなり設備の整ったキッチンもあった。僕はジャケットを脱いでダイニングの椅子に掛けると大理石の判子をキッチンの俎上に乗せた。判子の内側から何か得体の知れない魔法がどんどん触肢を伸ばしている。僕はキッチンの戸棚と抽斗を全部ひっくり返して作業台に道具を揃えた。

 まず、キッチンのドアを少し開く。次に作業台のナイフブロックから鋭く研がれたキッチンナイフを一本引き抜いてコンロの火でよく炙った。真っ赤に灼熱した刃先を見せびらかしながら、コツ、コツ、と作業台や戸棚を叩いて回る。ざーっ、と目には見えない何かがキッチンから一斉に退く気配がした。僕はキッチンのドアを閉めた。

 食器棚から引っ張り出したありったけの銀のカトラリーをナイフやフォークの刃先が内側を向くようにして作業台のまな板を取り囲むように並べていく。ただし、流し台の方にほんの少し通り抜けられる程度の隙間をわざと残しておくのを忘れずに。流し台にはふたをほんの少しずらした鉄鍋をどんと置いた。

 最後に瓶詰めのハーブや香辛料をフードプロセッサで粉砕して塩とよくかき混ぜた。試しに匂いを嗅でみるとゲホゲホと咳き込むほど酷い臭気だ。

 準備が済むと、どん、とキッチンの床を思いっきり踏み鳴らした。

 びくっ、と判子の内側で何かが驚きに身をすくませる。僕は、どん、どん、と立て続けに足を荒っぽく踏み鳴らした。びくっ、びくっ、と判子の内側で何かが飛び跳ねる。

 直後、判子から飛び出してきた魔法に向かってさっきの塩を思いっきりぶち撒けた。

 魔法は「ぎゃっ!」と悲鳴を上げて酷い臭気やカトラリーの刃先から逃れるように一目散に安全地帯へ――僕が流し台に置いておいた鉄鍋に飛び込む。魔法が罠に気づく前にガチャンと鍋のふたを閉じた。そして、今度はダクトテープで隙間なくぐるぐる巻きにして容赦なく冷凍庫にぶち込んだ。

 僕は両手の塩をパンパンと払い落として大理石の判子を改めて耳元で振ってみた。中身は全部出たようだ。

 部屋の呼び鈴が鳴った。

 僕は作業台を水でざっと流したあとトイレットペーパーで一滴残らず拭き取ってトイレに流し、キッチンナイフやカトラリーを他のものと一緒にあるべき場所へ戻した。ダイニングの椅子からジャケットを着直すと洗面台の鏡で身嗜みを整えて部屋のドアをほんの少しだけ開く。ギョロッ、と大きな目玉が僕を上目遣いに見て不気味な愛想笑いを浮かべた。

「湯婆婆と申します」

 僕が「こんばんは」と挨拶すると、湯婆婆と名乗った魔女は愛想笑いを浮かべたままチェーンのかかったドアの隙間から部屋の様子をうかがうような目つきをした。

「おやすみのところ大変失礼致します。じつは階下のお客様から足音がうるさいと苦情がございまして。何か問題でも?」

 僕は「キッチンに虫が出て」と答えた。湯婆婆は「虫」とわざとらしく目を丸くした。

「少しキッチンに入っても?」

 僕が「どうして?」と尋ねると、湯婆婆はにっこりと満面の笑みを浮かべて両手を揉んだ。

「また虫など出ますとわたくしどもの沽券に関わりますもので」

 僕がチェーンを外してドアを開くと、湯婆婆は「失礼致します」と油断のない目つきで部屋へ乗り込んだ。キッチンのコンロにはまだ微かに熱の気配が残っていた。湯婆婆は表情を一段と剣呑なものに変えた。

「コンロをお使いで?」

 僕は「お茶を飲もうと思って」と答えた。湯婆婆は「お茶」と眉根を寄せた。

「ルームサービスがございますのに?」

 僕は「そう思って途中でやめたんです」と答えた。実際、ティーセットがどこにあるのかもわからないのだ。

「この匂いは?」

 湯婆婆の大きな目が真っ直ぐ僕の目を見た。僕は湯婆婆の大きな目を真っ直ぐ見返した。わざとらしく瞬きして「匂い?」と尋ね返す。湯婆婆は「いいえ」と屈託のない笑顔を浮かべた。

「わたくしの気のせいで」

 湯婆婆は「何かご用向の際はお電話で」と言い残して部屋を去った。足音はしばらく僕の気配を探るように部屋の前で立ち止まっていたが、やがて、絨毯の敷かれた廊下を足早に遠ざかっていった。

 僕はベッドルームに引き返すと、適当な見当をつけてベッドの下から旅行鞄を引っ張り出した。しかし、着替えの類はない。部屋をざっと見回したあとサイドテーブルの電話を取ってルームサービスの番号を押した。僕が「女を手配してくれ。今すぐ」というと、例の「蛙」の声をしたルームサービスが子供をあやすような調子で「ただちに向かわせます」と答えた。僕は女の年齢、容姿、体格、服装に細かく注文をつけた。ルームサービスは慣れた調子で注文を繰り返したあと最後に「下着の色は?」尋ねた。僕は何も答えず電話を切った。

 女の子がシャワーを浴びている間、僕は彼女の鞄から化粧道具を拝借して寝室の化粧台にならべた。化粧台の三面鏡はたいへん便利なライト付きだ。あらかじめ洗顔と保湿を済ませた肌に手早く化粧下地を施した。ベースメイクの仕上げにパール入りのフェイスパウダーでツヤ感も足していく。僕もお肌に自然な透明感を演出したくなるお年頃なのだ。

 可愛い系は趣味じゃないのでアイシャドウとリップはブラウン系でシックな色合いにまとめた。目尻は少し跳ねてクールな印象に。アイラインが左右ともバッチリ決まったのでマスカラを盛る頃には気分は絶好調だ。

 ヘアスタイルは髪の毛全体にオイルを馴染ませてマニッシュショートのニュアンスで後ろへ軽く流しておく。全体をユニセックスな雰囲気でなんやかんやして違和感をうまく封殺する作戦だ。

 イブニングドレスに身を包むと肌の露出度は限りなく低くなった。首の付け根まである立衿と手首が隠れるほどの長袖が首筋や二の腕のラインをうまく隠してくれる。手袋を嵌めてタイツを穿くとさらに露出度は減った。肩幅の違和感はショールを羽織って軽減する。腰つきだけはなんとも言えないが淑女のお尻をジロジロと見るようなスケベと出くわさないのを祈るのみだ。

 僕は両耳をイヤリングで飾ってストラップ付きのパンプスを履くと、噛んでいたティッシュをゴミ箱へ捨てた。化粧台に身包み全部拝借していく旨を書いたメモとさっきカジノで勝ったチップの余りを置いておく。最後に香水瓶を軽く振って仮面を手に部屋を出た。

 少し進むと湯婆婆と蛙の一団が肩を怒らせながら廊下を歩いてくるのが見えた。僕は壁際で小さくお辞儀して彼らをやり過ごした。途中、何度か蛙たちに顔をマジマジと覗き込まれたが、僕が微笑んで小首を傾げると向こうも「いや、どうも」と照れ笑いを浮かべて頭を下げた。

 玄関広間の踊り場から様子をうかがうと正面玄関は既に閉鎖されていた。僕は手袋をした指先で「どうしたものかしら」としっとり濡れた唇を撫でた。

「あ……」

 ドレスの肩越しに振り向くと、背の高いカオナシが仮面の奥で微笑む気配がした。僕は細い銀の腕時計をちらっと見て少し気を持たせたあとゆっくりと微笑み返した。

 最上階のレストランはまだ静かで人も少なかった。僕らは窓際の特等席に斜向いに座った。カオナシがお酒のメニューを指差すのに静かな微笑みを湛えたまま楚々と首を振る。カオナシはライムを搾ったペリエとつまみを数種類アラカルトで注文するとメニューを閉じた。僕は窓から見える夜景を眺めていささかロマンチックな気分に浸っていた。

 カオナシは物静かな男だ。誰に何を尋ねられても「あ……」としか答えない。しかし、僕は口下手な男が決して嫌いではなかった。僕の腰に手を添えてきちんと上座に案内してくれる紳士ならなおさらのことだ。ペリエのグラスで乾杯する頃には、僕はカオナシに対して自然な好感を抱くようになっていた。

 僕はしゃべると声で変装が解けるし、カオナシもおしゃべりを楽しむというタイプではなかったので、僕らの食事は大英帝国の晩餐会のように会話に欠けたものになった。しかし、僕とカオナシの間にはあたたかく親密な心の交流があった。カオナシは自分は料理にはほんの少ししか手をつけないでもっぱら僕が食べるのを楽しげに見ていた。僕はお腹が満たされるにつれて「今夜はカオナシと一緒でもいいな」という気分にさせられつつあった。どのみち、正面玄関は封鎖されているのだ。カオナシは僕の心を見透かしたように白ワインと海老のフリットを追加で注文した。僕も少しお酒が欲しくなってきたところだった。

 僕とカオナシは二人でボトルを一本空けたあとグラッパを注文して変な形のグラスでちびちびと飲んだ。僕はお酒にとても弱いので普段は付き合い以上に飲んだりはしないのだけれど、なにせ今夜は謝肉祭の夜で相手はカオナシなのだ。グラスの中身が半分になる頃には、僕はすっかりほろ酔い気分でテーブルの下のカオナシの足(足?)を蹴って遊ぶようになっていた。カオナシもまんざら嫌でもなさそうにグラスを揺らしていた。カオナシは僕と違ってほとんどお酒に手をつけていなかった。

 デザートのフルーツコンポートが運ばれてくる頃には僕の酩酊は最高潮に達していた。フォークで突き刺したものがリンゴかダイコンかの区別もつかないのだ。多分ダイコンだと思うがコンポートにダイコンというのも変な取り合わせだ。僕の記憶はカオナシがテーブルチェックをしている場面で心地よい泥に呑まれるようにいったん途切れた。

 夢を見た。どんな夢かは忘れたがとにかく素敵な夢だ。

 薄暗い部屋のベッドで目がさめた。しこたま酒を飲んで寝たにしては悪くない気分がしたが、身体の芯にまだ少ししびれが残っている。枕とシーツからは香水と汗の入り混じった匂いがした。寝返りを打って部屋の反対側を見るとバスローブ姿のカオナシが煙草のフィルタをソファの肘掛けでトントンと叩いているのが見える。からん、とウイスキーグラスの氷が大きな音を立てた。

 僕は枕に半分顔を埋めながらもう半分でカオナシをしばらく見つめた。カオナシは半ば無意識に煙草を咥えてはマッチを擦る寸前で首を振る動作を数分おきに繰り返していた。鎖骨の途中まで剥き出しのドレスの襟元を押さえながら起き上がると、カオナシが「あ……」とソファから立ち上がってポットから紅茶を淹れてくれた。

 変な体勢で寝たせいで強張った節々を揉み解したあと床からショールやタイツを拾ってバスルームで熱いシャワーを浴びた。化粧を落とすとセンチメンタルな気分はおおむねもとに戻った。脱衣所には僕が一番最初に持ち込んだ服が丁寧に畳んで置いてあった。部屋に戻ると例の小姓の格好の少年――ハクがカオナシと何やら小声で話し込んでいた。ハクは僕の顔を見ると「そなたか」と笑みをこぼした。

「世話になった。銭婆からもそなたによろしくと言付かっている」

 僕が「銭婆?」と首を捻ると、ハクは「油屋のスポンサーだ」と頷き返した。

「湯婆婆は銭婆から経営権を委託された雇われ経営者にすぎない。湯婆婆があんなにも金を欲しがるのは、資産家の姉に対する劣等感の裏返しなんだ」

 ハクは「スポンサーと現場の仲が悪いのは万国共通だな」と口辺に笑みを刷いた。

「カオナシは銭婆の命令で契約書の改ざんを正しにきた。湯婆婆はなんだかんだと理由をつけては女たちを長く働かせようとしすぎる。そなたのおかげで事は無事済んだようだ」

 僕が「どういたしまして」とお辞儀すると、ハクは「では」と部屋のドアを指差した。

「ボイラー室から外に出られるように話を通してある。気をつけて」

 僕はハクとカオナシに手を振って別れた。ハクは黙ったまま頷き返し、カオナシは「あ……」と小さく手を振り返した。

 玄関広間の誰もいない受付の前を通って「閉鎖中」のドアから浴場へ入る。古代ローマの公衆浴場を彷彿とさせる大浴場だ。腰の高さほどの深さと市民プールほどの広さのある湯船を列柱の回廊がぐるりと取り囲んでいる。万神殿の床をくり抜いて風呂にしたという感じだ。

 僕は外套のポケットに両手を突っ込んで月明かりが差し込む列柱の回廊を真っ直ぐ進んだ。だだっ広い大浴場に足音が甲高く反響する。少し行くと「STAFF ONLY」のドアがあったのでハクから預かった鍵を差し込んで解錠した。

 紅楼の外壁に突き出た階段はお世辞にも安全基準を満たしているとは思えなかった。オンボロの手すりから下を覗き込むと、断崖絶壁の谷間を走る貨物列車がトンネルに吸い込まれていく。

 僕は黎明の夜気に白い息を吐くと外套のスロートラッチのベルトを留めて最初の段に足を踏み出した。階段はとにかくミシミシと嫌な音がした。ぐらぐら揺れる階段を一番最後まで降りると蒸気を吹くパイプのそばにボイラー室のドアが見える。僕はドンドンとドアを乱暴にノックした。中から「うるせえなあ」と機嫌の悪い声がした。

「入るなら静かに入れ」

 僕は「お邪魔します」と小声で断りを入れるとそーっとドアを押し開いた。薬湯の薬草を調合する台の上から釜爺が八本の手足の一本の人差し指を唇の前にあてて「しーっ」と僕を見る。僕は釜爺が指差す先を見た。

 小上がり和室のちゃぶ台に寄り掛かってらくさんがスヤスヤと寝息を立てていた。片耳がへにゃっと折れたトトロのお面を被っている。ちゃぶ台の傍らにあるゴディバの空き箱をススワタリたちが好奇心旺盛な目つきでしきりに覗き込んでいた。

「わしの孫だ」

 僕が胡散臭い目を向けると、釜爺は手を(文字通り)伸ばして「ほれ」と僕に紙で包んだ何かを差し出した。中身はおにぎりだ。

「チョコは食っちまった」

 僕と釜爺はらくさんの寝顔を眺めながらモグモグとおにぎりを頬張った。僕のやつの中身はおかかだった。釜爺が「おかか好きなんだがなあ」というのを無視して残りを頬張ると「ああっ」と情けない声がした。なんと言われようと僕もおかかが好きなのだ。

「どんぐり王国のお姫さまなんだよなあ」

 僕が「でしょ?」と釜爺を見上げても、釜爺は「わしの孫だ」という持論をかたくなに曲げなかった。もし推しの手足が八本あるなら僕も「木野瀬らく釜爺の孫説」を支持してもいい。でも今はとにかく「木野瀬らくどんぐり王国のお姫さま説」が最有力説だ。今後も弛まぬフィールドワークで説の裏付けを取っていく。

 よって、木野瀬らくはどんぐり王国のお姫さま。


 Q.E.D.(証明終了)

 


◆木野瀬らく◆
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