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放課後の図書室

 無駄な話は一切しなかった。

 というのも、先生が「30分しか話せない」と言ってスタートしていたからだ。3年生の担任をしていて、11月の終わりなので、保護者に成績の電話を入れる予定があったらしい。

 でも、気づけば1時間半も話していて、私が帰るときには7時を過ぎていた。学校に着いたときに暗くなりかけていた空は、もう真っ暗だった。満月が、東の空に浮かんでいた。私は帰路を急ぎながら、満月の写真を2枚撮った。

 今の私も、場面緘黙症を少し引きずっていて、まだあまり人の顔を見て話せるわけではなかったので、先生の声と、座りにくい椅子がきしむ音、時計の針が1分ごとに動く音などといった聴覚の記憶が多い。何か視覚的な情報も残そうと思い撮った満月は、写真として残っている。



 私と小野先生の出会いは、中3の始業式だった。緊急事態宣言でいきなり休校になったのが、ようやく明けたときだったので、下駄箱で体温を聞かれたのが最初だ。私が下駄箱に近づくと、生徒たちの体温を聞いていた先生たちの中から押し出されるように、初めて見る先生が出てきた。

「おはよう。」

その声が緊張してうわずっていたのは言うまでもない。私は、「全く喋らない子」として学校に通っていたからだ。

「体温、何度だった。指でできるか。」

こんなに人が多いのは久しぶりだった。初めての先生にも緊張して、体が思うように動かない。

「36度台?」

私はうなずく。

「6度1…2…3…4…5?」

5で1回止まったので、そこで適当にうなずいておいた。6度3だったけど、もういいや。先生はまだ私に慣れていない。質問のスピードが速すぎる。

「…はい。6度5ね。クラス発表はまだやから、去年のクラスの席に座っといて。」

適当にうなずいたのが気づかれた感じはしたし、わざわざ聞きにきたところで、私は、この人が担任になるんだろうな、と予感した。去年いた先生とは、誰ともやっていける気がしなかったから、嬉しかった。


 予感は的中。クラス発表が終わり、私は小野先生のクラスになった。違う中学校から新しく来た、理科の先生。それだけで、今年はやっていけそうだと思った。



 そこから1年を、先生と生徒、という関係で過ごして、卒業してからは、私が高専から通信制に転校するときに一度、報告に行ったきりだった。でも、今なぜ話しているのかというと、今年の5月、私が先生宛で中学校に手紙を送って、先生がそれを読んだ日に私が偶然電話をかけていたからだ。それがなかったら、ここまでの関係が続いていたのかも、私が今生きているのかも分からない。


 火曜日は、私が最近頑張っていることを報告して、30分でちゃんと終わろうと思っていた。次はゆっくり話したい、と言うから、なんかで連絡できないんですか、と聞いたら、

「ついに小野のLINEを手に入れるのか!」

と、私が言ってもないのに連絡先を教えてくれた。そして6時を回って、ほな帰ろか、と先生が立って、私が、今日相談したかったことを送りつけときます、と言ったら、相談って何?と、先生が座って延長戦が始まった。


 私のことをよく分かってくれている小野先生に、特別支援の相談をした。

「大阪では、支援学級がなくなっていってるの知ってる?」

「ああ。インクルーシブとか言って、ですよね。でも、分けないことも大事かもしれないけど、分けた場所に救われている人もいますよね。」

「そう。俺、翠ちゃんとこういう話がしたかったんよ。中3のときから。職員室で、こういう話ができたらな〜って言ってたし。」

「毎日の日記とは違うんですか?」

「あれは、1個1個、になるやん。書いて書いて〜になってたけど、こういう話ができたら、深まるやろうな、とは思ってた。それが今できてるから、ああ、よかったな、って思う。同僚に話すみたいになってるけど。」

私たちは一緒に笑う。

「今日、昔の手紙を整理してて、私が跳び箱の授業できなくて、手伝ってくれてた友達2人に手紙書いた返事が出てきたんですけど、あのとき、小野先生が2人に、翠ちゃんが自分でやることも大切やから、見守ってほしい、って言ったと思うんですよ。で、私、その2人に、小野先生はなんてこと言ってくれたんだ、私は1人じゃ何もできないのに、って手紙書いて…」

「今はどう思ってるん?」

「ここまで話せて、相談聞いてもらえて嬉しいし、出会えてよかった人だけど、そんな人にも悪いところとか嫌だったところとかがある…って思ってます。」

座っていたのに、私の足は震えていた。人の嫌だったことなんて、直接言ったことがなかったから。

「うん。なるほど。」

伝わった。よかった。

「あと、先生と初めて筆談したときに、私が書く番になったら、先生がこうやってしてて。」

私は腕を組んで机に乗せ、その上に顔を乗せた。

「覚えてないかもしれないけど、これ、めちゃくちゃファインプレーでした。見られてたら、書きにくいから。」

「まじ。覚えてないわ。でも、確かに見られてたら書きにくいやろうなとは思った。」

「めっちゃよかったです。いつか言いたかった。」

こうして、7時頃になって、ほな帰るか、と立って、小野先生が口を開く。

「20年ぐらい、この関係続きそうやな。一緒に酒飲みたいわ。」

「中2のときまで、私がここに来てたの知ってますか?」

そう。私たちが話しているのは図書室。私は、小野先生と出会う前、ここに通っていた。

「ちょっと聞いてた。まず、この部屋のことをよく分かってなかったけど。結構来てたん?」

私はうなずく。

「そうなんか。でも、中3のときは1回も来てないやんな?…そういうことか。え、そういうことで解釈してええんか?」

私は自分で言いたかったけど、とりあえずうなずいておいた。


 帰るとき、絶対に言いたい私が粘って、

「まだ練習中の言葉なんですよ。ああ。気持ちが込もってるほど言いにくい。」

と言い足踏みすると、先生も真似して足踏みした。

「もう帰るで。」

靴を履く。

「じゃあな。さよなら。」

「あ、ああ、ありがとうございました。」

「言えたやん。よかった。」



私たちは、きっとこれからも同僚のように話す。私が学生のうちは、この図書室で。大人になれば、居酒屋でお酒を飲みながら。どこからが現実で、どこからが物語なのか分からない文章ができた。

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