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何もできてないわけじゃないけど、何もできなかった。(啓発月間)

 今日で、場面緘黙症啓発月間が終わります。

今月を振り返って、今日は何度もこう思いました。「何もできてないわけじゃないけど、何もできなかった。」

 夜のあさがおも開催したかったし、もっといろんな人に、「場面緘黙症」という症状を知ってほしかったけど、私が生きていくだけで精一杯な1か月だったので、そこまで手が回りませんでした。

 学校も、5月は面談以外で行かなかったし、予備校は行けなくなってからちょうど1か月です。夢があるのに、それに向かって進んでいけない自分が嫌になります。

 これは、「何もできなかった」の部分で、ここからは、「何もできてないわけじゃない」の部分を書きます。

 それは、生きたことです。

 正直、頭の半分では、こんなことしかできていないのか、と思いました。でも、あとの半分では、生きたことを肯定しています。いろんな人に「また会おうね」って言ってもらったり、『命第一』もそうだし、「生きてれば、なんとかなる。」とか、「夢がなくても大切な人がいなくても、死ぬ必要はありません。」とか、これはすべて別の先生から言われた言葉ですが、こうやって言われたことによって、「今は生きているだけでいいのかもな」と思ったりして、なんとか自分で納得しています。

 話は変わりますが、最近、中学校にいる夢をよく見ます。だいたいが、喋れない夢です。動けないとか、本当は喋れるのに、私の言葉が出てくるのを誰も待ってくれないみたいな設定です。こんな夢を見るのは、私が、「喋れないのは悪いことだ」と思っているからじゃないかと元・倫理の先生に言われました。確かに、自分ではそう思っているかもしれません。でも、他の緘黙の人と接する機会があったら、その人にはそう思わないと思います。喋れなくても、私が待ったり、筆談したり、それでいいと思います。難しいですが、私には、昔からいろんな方法で、「喋れないのは悪いことだ」という考えがすり込まれてきたんだと思います。

 「悪いこと」じゃないというのは分かっていても、そういう昔からの考え方があるから、いつまでも生きにくいのかもしれません。これは、年月が解決してくれると思います。

 とりとめもない話になってしまいましたが、啓発月間が終わるので、自分の考えを書いてみました。また読みにきてください。

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