「分からない」を「一緒に考える」
場面緘黙も10年目くらいで、外で全く話せないことに慣れっこだった中2のとき、学校にいる間の長い時間を別室で過ごしていた時期があった。毎日、朝から通うんだけど、別室の他の子たちが登校しだす2時間目くらいから別室に行って、4時間目までいる。給食からは部屋が閉まるので、他のみんなは帰っていたけど、私は帰るわけにもいかなくて、教室に戻る。昼からの時間でしんどくなったら、保健室に行く。
なぜ他の子たちが登校しだすときから行っていたのかというと、他の子がいないと別室は開いていなくて、職員室に行くか適当に先生を捕まえるかして、担当の先生に開けに来てもらう必要があったからだ。メモ帳とペンを常にポケットに入れていたから、喋れないならそれで書いて先生に伝えればいいと思うだろう。少なくともあの頃の先生たちはそう思っていて、私に何度もそう言った。制服の、物を入れすぎて少し膨らんだポケットを指で叩きながら、「ペン持ってるやろ。」と低めの声で。言われても、学校では何かに縛られているように動きが遅くて、簡単には書けないなんて、書けないから伝わらなかった。そんな思いをするなら、1時間目は我慢して教室にいた方がましだった。職員室のドアに向かうことは、駅前で演説をするくらいの恐怖だった。だいたい、私が別室に行くことをよく思っている先生はほぼいなかった。それは、許可を取らず急に消えて職員室が大騒ぎになるからなのか、許可を取りに来た私に仕事を中断させられるからなのか、もう分からない。
とにかく、そういうことで、私が別室のドアを開けたときは、別室にいる専属の先生がいつも「誰かに言って来た?」と聞いてくれていた。私が首を横に振って、「じゃあ職員室行ってくるわ」と先生を走らせるまでがだいたいのセットだった。この先生は何も言わず、ついでに職員室からプリントを持ってきたりしていた。この先生に対しては、怯えずに苦笑いして首を振れた。私の筋肉が緩む、数少ない大人だった。
ある日、私は英語の時間の前に教室を抜け出して、別室で過ごしていた。すると、授業終わりのチャイムが鳴ったあと、英語の先生が別室のドアを開けて、教室に戻る準備をしていた私を呼んだ。衝撃が大きくて、細かいことは覚えていないけど、廊下で先生から言われたのは、次のことだった。
英語の前の休み時間(10分)は教室にいたのに、なぜ抜け出したのか。そのままいたらいいのに。
連絡もなくどっかに行かれると、授業を止めて職員室に確認しないといけない。今回は委員長を職員室に行かせた。委員長はWarming upの時間を受けられなかった。先生と私は今、給食の準備を手伝えない。
私はなぜか、この先生の前ではゆっくりだけど筆談ができた。英語でホワイトボードを使っていたからか、学年主任で付き合いが2年目だったからか。「なぜ抜け出したのか」の問いに、焦りながらメモ帳をゆっくり出して、いろんな力を絞って書けたのは、「分かりません」の一言だった。先生は「なんで分からへんの!」と言った。前の時間までは教室にいたのに、抜けたってことは何か理由があるだろうと。
それで私は必死に考えた。教室にいたら潰れてしまいそうだったから。誰も私のことを見ていないから。いくつか浮かんだけど、どれも本当で、どれも嘘だった。「気づいたら、ふらっと出ていた」が近いけど、結局理由じゃなくて書けない。沈黙が続く私たちの横を、音楽の先生が不思議そうに通った。
「分かりません」と書いたときは、本当に分からなかったわけではないと思う。素早く考えることから逃げただけだと思う。でも、「分からない」を否定されてから、本当に分からなくなった。どんな理由も、正しくなくなった。私のせいで委員長が不利益を被った話を出したら、私が反省して、次からちゃんと別室に行く前に連絡するようになると思ったんだろうか。委員長には、とても申し訳なく思った。教室に戻ってからしばらく、委員長の顔色を気にしていたくらい(特に私を責めるような言動はなかったので安心した)。だけど、それで適当に先生を捕まえて「別室行きたいです」と書けるようにはならなかった。罪悪感で書けるようになるなら、もともとちゃんと書けている。連絡なしに抜けて、誰にも迷惑をかけてないなんて思ってない。迷惑をかけることは分かっていて、それでも教室に縛り付けられるのが苦しくてよろよろと出てしまうのだ。
先生たちも限界だったんだろうなと思う。先生にとって、生徒がいきなり消えるなんて、あってはならない事態で、それを頻繁に起こす私に、我慢がきかなくなったんだろう。だけど、私も限界だった。先生が限界まで困っているのを分かっていても、「連絡なしで行くなら使えんくなるで」と脅されても、「別室にいる他の子もみんな同じ決まりを守ってるから。あなただけ特別扱いはできません。書きなさい。」と言われても、私は黙って頷いて、次の日からも黙って別室へ抜けていた。それが私にできる唯一の反抗だった。「連絡なしで行くなら使えんくなるで」と言われながら、(脅したって無駄やって、まだ分からんの?)と静かに呆れていたし、「別室にいる他の子もみんな同じ決まりを守ってるから」と言われながら、(みんな喋れるもんな)とため息を飲み込んでいたけど、その気持ちはいつまでも先生に表せなくて、先生たちは代わる代わる同じような言葉を刺してきた。私の心は、時に荒れ狂う水の塊となって押し寄せ、時に紫の触手を出して暴れた。それでも学校に通った。教室では一切笑わず、黙って行った別室で息をした。それが私にできる唯一の意思表示だった。
今でもまだ、「分かりません」と言うことが怖い。
学年主任で英語担当だった先生とは、卒業して3年以上経った今でもたまに会うほど仲良くしている。あのあとも卒業まで何度か叱られて、たくさんの考えを文字にしてぶつけ合った。中3になってからは、授業の発表をどうするかとか、進路の話とか、そこでは時間がなくて一気に先生が喋ったとしても、最後に「言いたいことがあったら書いてきて」と言ってくれるようになった。先生も、言いたいことを何度も手紙で「書いてきて」くれた。先生が嫌いなわけではなかったけど、嫌いになるしかなかったんだ。ちょうど中3に進級するタイミングで、緊急事態宣言による一斉休校が始まったこともあって、「来年からは心機一転、リセットしてみよう」と家でゆっくり考えられたのも大きかった。別室には中3の1年間で1回も行かなかった。先生に気持ちを伝えられるようになったのに、と思ってはいない。むしろ、先生に気持ちを伝えられるようになった「から」だと思っている。もう、勝手に抜け出すことでしか気持ちを伝えられない関係は終わったから。
私は今、発達障害の子と一緒にキャンプするボランティアに行っている。どんなに伝え方が未熟でも、その子の話をゆっくり聞いてその子の世界に入れてほしいと思っている。少しのサインも見逃したくないと思っている。私がそういう子供だったからだけど、あの頃、他の大人とは違うなと思っていた数少ない先生もそうだったのかな、と思うと、今話してみたくなる。外でも声が出るようになった今だから、あの頃のことが真剣な笑顔で話せると思う。
中学生の頃から高校卒業くらいまでは、「中学校の理科の先生になりたい」と思っていた。でも、高校3年生になってすぐ、勉強に手がつかなくなって、高校を卒業してから今までの半年ちょっとを、ボランティア以外はほとんど何もせずに過ごした。全く勉強をしなかったので、今からすぐに大学に行けるつもりはない。だから、先生になる夢も自然と消えている。それに伴って、他にやりたいことが見つかってきた。その中のひとつが、「子供たちの考えていることを、一緒に考えること」。大人は何でも知っているわけではない。大人は勝手にどうにかしてくれるわけでもない。それを、幼い私は良くも悪くも知らなかった。「大人になったら何でもできるようになるから、そこまでの辛抱だ」と小さな希望を持てていたし、「大人なのに何も分かってない」と大きな憤りを持っていた。一応成人した今、それが違うことに少しずつ気づいているけど、あまり正しくない希望は、できることなら持ちたくなかった。大人だって全然何もできないと、あの頃知っていれば何かが違ったかもしれない。「〜だから分からないです」とか、「分からないけど、〜だと思っています」とか、「分からない」の前後に防具を引っ付けて話す必要は生まれなかったかもしれない。大人が一緒に考えることで、子供は大人側の事情を、大人は子供側の事情を正しく知ることができる。お互いに変に決めつけて、関わりがすれ違うことを少なくできる。「一緒に」が大事だ。それは子供のためにするだけじゃなくて、大人のためでもあるから。
中学生時代の私が想像する18歳の私は、大学に通って、夢に向かって走っているだろう。でも、実際は大学生にもならず、先生になることとは少し離れた夢を追求しようとしている。中学生のときは「先生」しか知らなかったけど、子供と関わる職業なんて山ほどある。あの頃は「先生になりたい」としか表現できなかったけど、芯の部分はきっと今とはそんなに変わらない、「子供と一緒に何かをしたい」だと思う。想像していなかった未来にいる自分にも、過去からずっと続いている部分がある。それは、先生と仲良くなった私が、まだ「分かりません」と言うのが怖いみたいに、頑張っても変わらなかったような部分もあるだろう。でも、あの頃は想像していなかった未来に今いるけど、いろんな可能性を考えて、自分の最善を尽くしてきたから、あまり芯を動かさずに、あの頃の夢を一緒に叶えられそうな気がしている。
想像できてしまう未来には、想像できる分の喜びしかないと思う。悲しみもそれと同じくらい。だから、これからも、想像していなかった未来に生きていたい。そして、想像していないくらいの悲しみを乗り越えながら、想像していないくらいの喜びを感じていたい。