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季報:『The Cosmic Wheel Sisterhood』が突きつける運命のこと

※ 『The Cosmic Wheel Sisterhood』のゲーム性や終盤の展開に言及しています。致命的なネタバレはありませんが、プレイ前に読むとあなたのゲーム体験を著しく損なう可能性があります。
※『The Red Strings Club』の核心にふれています。

 『The Cosmic Wheel Sisterhood』をクリアした。途方もない体験で、この文章を書いている今でもどこか放心したような気分になっている。

 Deconstructeamが開発した本作は、ドット絵が非常に美しいアドベンチャーゲームだ。
 主人公である魔女のフォルトゥーナは、ある事情により魔女の共同体(コヴン)を追放される。それから200年ものあいだ、宇宙の果ての小惑星にて流刑の憂き目に遭う。自由を得るために禁忌の存在と契約を結んだところ、彼女はタロットを彷彿とさせるカードで運命を紐解く力を手に入れる。

 本作のゲーム性は非常にシンプルで優れている。禁忌の存在──エイブラマーという名をもつベヒモスだ──と対話をし、カードを作り、魔女の友人知人の悩みをカードで解決する。カードの作成がおもしろく、パズルのような趣もあった。
 彼女やコヴンの運命は、頻繁に登場する選択肢に委ねられる。多くのアドベンチャーゲームにおいてそうであるように、本作においては私たちプレイヤーの選択が物語の行く末を左右する。そのこと自体はなんら驚きに値することではない。
 だが、本作における選択の重みは果てしなく強烈なのだ。

「本作は運命にまつわる物語です。そのため進行状況は自動で保存され、データは常に上書きされていきます。1つのプレイを複数のスロットに保存し分けて様々な選択肢を試す、といったことはできません。」

『The Cosmic Wheel Sisterhood』セーブスロット選択画面

 本作において選択は絶対だ。どのような場面でもそのときに持っているカード、あるいは浮かんだ言葉からひとつを選び取ることしかできない。後戻りをすることはできないし、選択肢をあらかじめ知ることもできない。これではまるで人生ではないか。私はそう思い、かすかに身震いをした。

 物語を進めるにつれて、運命とは吉凶禍福の結果そのものを指すのではなく、持ち合わせたカードからひとつを残して他のすべてを捨象しなければならないことなのだと思い知る。私たちは何かを選んでいるのではなく、ただそれ以外の道を捨てているだけなのだ。

 本作は優しいゲームなので「この選択はのちの運命に劇的な影響をもたらす」と律儀に警告してくれる。それでも私たちは、確信をもって選択することは難しい。ひとつひとつの選択肢を吟味して、想像して、検討して──実際の人生においてはありえないほどの長い時間をかけて思考して──それでもこの選択に後悔はないと言い切ることはできなかった。

 おそらく、本作には数えきれないほどの分岐といくつもの結末が用意されている。ゲームの最後に示されたように、もう一度本作をプレイすればその分岐を確かめることはできるだろう。
 だが、私はそれをしない。自らの選択の果てにたどり着いた結末を愛しているからだ。ハッピーエンドではなかったかもしれないし、失ったものもあった。熟考した選択肢もあれば、直感に従って即断した選択肢もあった。それでもこれが最善の選択だったとなぜか確信をもって言えるような気がする。

 物語の終盤で、フォルトゥーナはカードの占い結果を「読んでいる」のではなく「書いている」のだとわかる。つまり、彼女が行なっていたのは占いではなく未来あるいは過去の創造だったのだ。
 これについて私は驚かなかった。アドベンチャーゲームのプレイヤーのやっていることは変わらないからだ。選択肢のあるアドベンチャーゲームにおいて、読むことは進路を決めることと同義であり、運命をコントローラで左右している。
 しかしフォルトゥーナがそれを自覚することで、彼女の葛藤とプレイヤーの葛藤はシンクロする。これによってただのゲームプレイがかけがえのない運命の体験に変わっていく。この指はただボタンを押すのではなく、宇宙の運命を決定づけるカードを選ぶようになっていった。

 重みのある選択をいくつも求められるからこそ、偶然に(あるいは必然に)たどり着いた結末を唯一のものと思い、受け入れる。まるではじめからその結末以外はなかったと言わんばかりに──ここで私は、同じ開発者が手掛けたアドベンチャーゲームである『The Red Strings Club』を想起する。私がこよなく愛するタイトルのひとつだ。

 『The Red Strings Club』では、バーテンダーである主人公が客の抱える悩みやバックグラウンドを解き明かしていく。やがて物語は、人間の精神に干渉して怒りや恐怖を消し去るシステムの是非を真正面から問いかけてくる。『The Cosmic Wheel Sisterhood』とは決して重ならないあらすじだが、私はあの物語に内在するたったひとつの運命について想いを馳せずにはいられなかった。
 『The Red Strings Club』のエンディングは悲劇的なものだ。それを迎えたとき、プレイヤーの前には記憶を消去してやり直すためのピルが与えられる。今度こそはあの喪失を回避しよう。そう決意して服用したところで、ゲームプレイの開始直後に見た自由落下をふたたび目の当たりにし、結末が不可避であることを悟る。何度繰り返したところで結末が唯一のものであることは変わらない。
 だからこそ私は、あの落下の最中にかける言葉を自らの選択で選ぶことができた──愛している、と選択することをためらわなかった──ことを愛おしく思う。この選択肢のおかげで結末は単なる悲劇にとどまらず、感傷と満足感が途方もなく美しい雨に溶けていった。

 話を本作に戻そう。本作の結末はおそらく無数にあるのだが、終盤で大きな喪失を経ることは不可避であるはずだ。フォルトゥーナが流刑の憂き目に遭ったのはひとえに彼女がコヴンの崩壊を予言したからであり、先述のとおり彼女の予言は予言ではない。真実そのものである。この前提は何度ゲームを繰り返し、何度カードを引き直したところで揺らぐことはないだろう。そして、彼女とエイブラマーの契約の内容も同じだ。
 しかしながら、選択肢によってその意味を読み替えることは可能だ。ただの悲しみで終わることのない、希望の芽を見出すこともゲームプレイによってはできるだろう。

 私たちはゲームを終えたあともカードを引き続ける。人生のなかで岐路に立ったとき、あるいはそれほどでもない選択を前にしたとき、私たちは何かを捨てて何かを選ばざるを得ない。
 そのときに持ち合わせているカードはたった一枚かもしれないし、数十枚にのぼるかもしれない。人生というゲームの不条理さはいつだって普遍であり不変なのだけれど、そのなかでひとつでも誇れる選択ができたならば、たどり着いた結末を愛せるのではないだろうか。

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