見出し画像

書くことと読むことと

昨日は書くことと読むことをたくさんしたおもしろい日だった。

書くことでは、午前中、元祖というかほんまもんの『文章筋トレ』に参加した。10分と45分の筋トレ。45分ははじめての体験だった。ひとまとまりの時間のなかで書くことができた。そもそも上手下手を競うものでも目指すものでもなく振る舞いは自由なだけに自分があらわれるしあらわすことができる。あらわになる時間。それがまことに気持ちよい。互いが書いた文章を読みあい感想を言いあう時間も用意されている。文章は書き手のところをはなれて読み手によってこれまた自由に読まれていく。そのさまを見届ける。書き手と読み手はまったく別の生きものであることがこのときわかる。まったくもってたのしい時間だった。

昨日の参加者が書いた文章の中で印象に残るものがあった。「書くことは何かを始めてしまう。書くことは引き起こしている。ある体験をしたとしてそれについて書くというのは、その体験を保存すると同時に、引き起こしている」という。僕が印象に残ったところの部分の抜粋だが、この書き手は「書くということがどういうことか?」を書こうとしてした。でも結局、時間内では書き切れずに終わった。それでも「書くことは何かを始めてしまう」ということを書き残していた。そうだなとおもった。書くことではじまってしまうことがあるなと。というか書きはじめることではじまってしまうという感じの方が近いか。わからない。はっきりとはいえない。でもそうだ。いまの僕ならそうだ。

昨日は読むこともいっぱいした。夜にはオンライン読書会を。この会は3回目だ。ある文庫本を章ごとにわけて声に出して読むという企画。ゆっくりじっくり読む時間。初回の読書会は45分開催だったが、2回目からは参加者の希望で1時間半に延長した。どうやら1時間半ぐらいがちょうどいい。そんな感じ。

読んだのは文庫本7ページ。それを繰り返し繰り返し声に出して読んだ。読みたい人が声に出して読んだ。読むたびにちがう世界が広がる。そんな感想なども口々に言いあいながら。正しい読み方、集約し収束していくような読み方ではなく、もっと自由に開かれた読み方、散り散りになっていくような読み方だった。それがとてもおもしろかった。散り散りになっていくさまがおもしろかった。参加者それぞれがちがうものを見ていた。それぞれがそれぞれのところに居続けた。共感も共鳴もなく。わかりあうこともなく。ただその時間を1冊の本を手に共に過ごした。たのしくおもしろい時間だった。

……

若松英輔著『悲しみの秘義』32p~33pより

『作品は、作者のものではない。書き終わった地点から書き手の手を離れてゆく。言葉は、書かれただけでは未完成で、読まれることによって結実する。読まれることによってのみ、魂に語りかける無形の言葉になって世に放たれる。読み手は、書き手とは異なる視座から作品を読み、何かを創造している。書き手は、自分が何を書いたか、作品の全貌を知らない。それを知るのはいつも、読み手の役割なのである。』

……

書き手に書かれて「始まった」何かは、こうしてそれぞれの読み手のところで「終わって」何かになるのかもしれない。完結するのかもしれない。いやそうではなくて読み手が、また「そのつづき」を始めるのかもしれない。でもそれはどこまでいってもわからないこと、なのかもしれない。

書くことも読むことも、おもしろい。1412文字

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?