2023/12/28
2023年が終わろうとしている。誰から頼まれたわけでもなく始まった年は、地球の公転とともに終焉を迎える。それはあまりにも自然なことなので、何も感じない。年の瀬であっても、何も書きたいことはないけれど、何かを書こうとしている。
すべての文章は私的なものだから、こんな公の場に書くことは何もない。例えばあなたのこと。それをもしぼくがこの場に書いたとして、ただそれが消費されていくことに何の意味があるのだろうか。そんなものはあなただけに向けて発信されるべきもので、それを言葉として書き落として、不特定多数に晒すことで、得られる快楽は明らかに誤った快楽ではないのか。そんなことを考えている。
ただ、私性の脱却は明らかに不可能なもので、言葉がある特定の人物から発信、記述されるという構造をとっている以上、その背景を完全に透過することは出来ないのであろう。そうすると一体どうすれば良いのか。明らかな私性の暴力で飾り付けをすれば良いのだろうか。私性を限りなく透明に近づけることが果たして素晴らしいことなのか。おそらくそのどちらでもないのだろう。
ぼくは、何かを発信するために、明確な意味を持つ必要は決してないと思っている。それは、複雑な構造の中に言葉を置いて理解するのではなく、ただ言葉を言葉として捉えることであり、言葉そのものに対しての真剣な向き合い方だと思う。言葉は偶然に選ばれて、偶然に消費される。その取捨選択に意味を求めすぎたくない。しかし、そのランダムさが積み重なって地盤を作ってしまうと、そこから想像性が生まれてしまうことになるのではないか。
ぼくがぼくという人称を使う時、私の中では偶然性によってぼくという人称が使用されているだけでも、あなた自身の中では、その偶然性の堆積がぼくの存在を確立させる。そうした存在の独り歩きが、言葉の可能性を広めることも狭めることもある。ぼくはぼくであると同時に、決してぼくではない。それはただの人称代名詞なのである。
インターネットが広がる前、実際の対面での会話が中心だった頃は、話者と人称は同一の関係にあった。ぼくはぼく、わたしはわたし、おれはおれのことを表していた。インターネットの普及によって、この関係性が壊れた。不特定多数の人称がぼくの視界の中に蔓延り、訳もわからない話が声高に響いている。それはこの文章と何一つ変わらない構造で、何の意味も持たない。いや、意味を持っていたとしても、書き手にとってはそれがどのように広がっていくかは見当もつかない。言葉はその状態で良いと思う。ただ、出来ることなら少しでも良いから、良い方向に広がってほしいと思う。
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何も言うつもりはないと書いたが、これだけは書いておかないと嘘になるから書き残します。ぼくは、あらゆる戦争や虐殺に反対の立場を取ります。今年ぼくは戦争や虐殺について何も言及できずにいました。それは自分が言葉を発してしまうことの怖さと責任から逃げていただけだと思います。自分なりに情報を集めてはいましたが、今でも状況について詳しく理解ができているかと言われると自信は持てません。ただ、どんな人であっても不当に殺される理由は無いと心の底から思います。立場を表明することの難しさよりも、当たり前のことを当たり前に発信させていただきます。すべての世界が平和になることを祈ります。
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本年もありがとうございました。年末年始ごゆっくりお過ごしください。良いお年を。そして、来る年は少しでも素敵な未来になりますように。またゆっくりと話を聞かせてください。
写真:Katinka Goldberg『Bristningar』より
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