他人を喜ばせることを人生の目的にしてはいけない
世界を救うためには何をすればいいのか。
ここ10年ほど、ずっと考えている。
ITやテクノロジーの発展は人類の生活を便利にはしたけれど、人類の生活を豊かにはしなかった。
この先、どれほど科学が進歩しても、世界が救われることはないだろうと私は確信している。
5年ほど前、世界を救うための方法は、『身の回りにいる人を喜ばせること』だと私は思った。
全人類がそれができれば、きっと世界は救われるのではないかと思い、他者に喜んでもらうことを第一優先に生きてきた。
しかし、その生き方では世界は救われないということに私は気づいた。
なぜならば、全ての人を喜ばせることなどできるはずがなく、誰かが喜ぶ行為をするということは、一方で誰かにとっては怒りや悲しみを与える行為であることが多いからだ。
また、自身の卓越性を活かして喜ばせることができる範囲の人は限られている。限られた人にしか影響を与えることができない方法で、世界を救うことなど到底できないと私は確信した。
他人を喜ばせることを目的に行動することは尊い。しかし、他人を喜ばせることを人生の目的にしてしまえば、他人に囚われながら生きていくことになる。
他人は変えることができないのだから、コントロールできない対象を人生の目的にしてはならない。
では、世界を救うためにはどうすればいいのか。私は再定義をしなおしてみた。
それは何にも囚われず生きていくことだ。
人間は常に何かに囚われて生きている。
仕事や家族、恋人、思想、宗教など。
囚われるものがあるということは、囚われるものの対極にあるものを否定しているということだ。
否定する存在がある時点で争いはなくならない。
だが、何にも囚われなかったらどうだろう。
肯定する対象がなくなる代わりに、否定する対象もなくなるのだ。
否定対象がないほうが、私は世界にとっていい状態ではないかとおもうのだ。
人類のあらゆる負の感情は、ある対象に対しての否定からはじまっている。これがなくなれば、いまより世界は救われるのではないだろうか。
負の感情は正の感情に転じる時に大きなエクスタシーを感じることがある。これが人生の喜びであると思っている人もいるだろうが、この感情変換は言ってしまえば麻薬と同じなのだ。
長い苦しみの代わりに得られるのは一瞬の快楽で、その快楽さえも時間が過ぎれば忘れてしまうちっぽけなものだ。
世界を救うというのは、山あり谷ありの人生を歩むことではなく、勾配のない道をゆっくりと歩き、何にも囚われず生きていくことではあるまいか。
他人の人生にも自分の人生に対しても、肯定も否定もしないこと。
それが、世界を救う方法だと私は思っている。
もっといえば、世界を救うために、世界を救おうとしないことも重要だ。
それと、これは断言できるが、思想の統一を目指すことで世界が救われることはない。それは歴史を遡れば明らかだ。
だから、全ての人が何にも囚われないようになってほしいなど、私は微塵も思わない。
私は私の思想をただ信じ、そして行き着くところまで進んだら自分の思想を疑いながら生きていく。
それだけだ。