何やってる人間なの?という問いについて

鬼のように忙しかったこの一週間を駆け抜けました。どうも、どうも、どうも。

…どうもってどこを語源に持ってるのか気になってきました。
調べてみたところ

「どうとも言えぬ」が元になっているらしい。「どう」っていう指示詞っぽい言葉に「とも」は格助詞+係助詞。「と」にかかる言葉をうけて、みたいなニュアンス。

どのようにもいうことができない〜、筆舌に尽くしがたい!(マジパネエ)みたいなところから、どうも言えない何か素晴らしいものを示すようになり、今のどうもがあるらしい。

つまりすごい、とか、やばい、みたいな強調のニュアンスを持った言葉な訳だね。理解理解。
うーん、なんの話をしたいのか忘れる。

あ、そうです。ここの3、4日は睡眠時間、4時間くらいでお送りしていたわけなのですけれど、あまりに経験として面白かったので、走り書きしたいな〜と思って、書きはじめようと思ったのです。

私はデザイナーとして日々を走っているのだけれど、大きな会社ではないので、必ずしもデザインだけをやるわけではなく、例えば(以下読み飛ばしてください)

・商品告知のためのリリース文章を書く
・ECサイト(エレクトリックコマース、電子商会…ネット上のお店のこと)の運用をする
・写真を撮る
・インスタの運用
・ストアの流入を増やすためにSEO(サーチエンジンオーガナイゼーション、Googleさんに検索順位あげてもらって、たくさんサイトを見てもらうための施策みたいなもの)

みたいなことを、デザインとは別で持って進めたりしております。

もちろんデザインもします。サイトやメディアのUIデザインだったりを中心に、自分で撮った写真をレタッチしたり、ロゴをつくったり副業では名刺つくったり、雑誌作ったり、サービスデザインつくったり…多い気がしますな???????

(ここから戻る)かなり多岐にわたって、手を動かしたり、脳を動かしたりしております。
それだけでもかなり多いとは思いつつ。

この度はなぜかわからないけれど、生放送のスタッフをやることに。

画面に表示される、テロップをつくるところからはじまり、スタジオのセット、配線、ライティング。
ライブ本番では、画面の切り替え、テロップ出し、カメラの調整、タイムキープ…みたいなことをやってました。

肉体を伴う仕事だったので無茶苦茶疲れた。本当にやばい。どうもやばい。

書き上げただけでもこんなに多いので、疲れた。思ったことはまた書く。

でもなんだろう、人ってやれることがたくさんある。
これは誰が特別とかではなく、自分が「どうせできないから」って無意識に線引きしていることって、実はすごくたくさんあって、その線を越えるきっかけ、例えばやらざるを得ない状況に追い込まれるとか、背中を押してもらえるとか、何かあれば、結構やれてしまうんだなとすごく感じる数日間でした。

空は飛べないけど。デザインを空を飛ぶようなことだと思っている人もいるだろうし、実際ニッチもサッチもいかない人がいないとは思わないし、言わないけれど。
きちんと時間をかけてあげれば、どんなこともある程度はできるようになる気がする。

好きであることは、続けられることだ。続けられることが、才能があるということだ。と、思ったりもします。

(スポーツや音楽家など、身体性能に大きく左右される技能は才能があり、結果勝ち続けることができるため『続けられるひとは才能がある』っていう鶏卵的な話はまた別)

何を楽しいと思うか、感じるかは人それぞれで、私は何かを自分の中に集めることを言いようもなく楽しく感じる、収集欲の人間です。
物的ではなく、経験や情報、考え方をそれぞれ知識とし、自分の中に集めていくことにすごく幸せを感じるし、気持ち良いに触れる。
例えば人の表情とか感情すらもそれにあたり「この人はこんな顔をするのだな」という情報すら、そこに帰着する楽しさであったりします。

人の快楽や楽しさは千差万別で、本質的に自分の楽しさ、みたいなものがどこにあるのか。

そして他の人は必ずしもそれを楽しまない、別の方向や切り口から楽しんでいること、を理解できるようになって、生きやすくなったような、また世界の見え方が変わったような気もするんだよなー。
だからなんだろう、なにを楽しく感じて、どう続けられるか、目の前にあることを自分はどう楽しんでいるか(逆もしかり)を冷静に見つめて、続けられるかとか考えたらいいのかもなーとかね。

いろんなことを経験できることが私にとって、価値になりあるから、この職は最高なのです。という話。タブンネ。
どうも職場!
お後がよろしいようで!!!!!





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