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神子柴遺跡 【旧石器電子辞書】<み>

神子柴遺跡 【みこしば いせき】

【位置と立地】
 神子柴遺跡は、長野県上伊那郡南箕輪村神子柴大清水7888番地、本州のほぼ中央部にあたり、北緯35度51分45秒、東経137度57分40秒にある。
 遺跡は、天竜川より1kmほど離れた段丘の突端部にあり、石器の出土したA地点の標高は714mである。遺跡のある段丘の下には豊富な湧水がある。遺跡からは、東に南アルプスが、西には中央アルプスの山々が遠望できる。

【調査の経過】
 神子柴遺跡は、地元伊那地域の考古学研究者である林茂樹の綿密な調査によって1958年に確認され、一度の試掘調査と三度の本発掘調査がなされた。試掘調査と第1次本発掘調査が1958年11月(写真上)、第2次本発掘調査が1959年11月、第3次本発掘調査が1968年11月になされた。第1・2次本発掘調査(林編2008)、第3次本発掘調査(南箕輪村教育委員会1969)のそれぞれに発掘調査報告書が刊行されている。

写真22(Fig024)
芹沢長介と小林達雄 神子柴遺跡の第2次調査で
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折り重なって出土した尖頭器

【遺構と遺物】
 ここでは、いわゆる神子柴系石器群の標識となるA地点の石器群について述べる。
 A地点の石器分布は、6m×3mの範囲に広がっており、垂直分布の中心はソフトローム層である。その特色は、剥片など一部の石器を除き、完成された石器ばかりが出土した点にある。また、それらの石器の状態は明らかに配置されたと思えるものが多数あった。尖頭器数点の並べ置き、石核のまとめて置き、掻器・削器・尖頭器の集積(写真上)などいくつかのスポットが残されていた。
 A地点の石器総数は87点である。その内訳は、局部磨製石斧9点・打製石斧4点・尖頭器18点・掻器11点・削器8点・敲石2点・砥石2点・石核10点・石刃1点・削片1点・剥片21点である。土器は組成していない。これらのうち所在不明な石刃1点と剥片4点を除く全石器が、この時期を代表する重要かつ優美で精巧な作りの石器群として、1988年に国重要文化財に指定されている。
石器石材は、黒曜石、下呂石、珪質頁岩、凝灰質頁岩、凝灰岩、「玉髄」、碧玉(鉄石英)、黒雲母粘板岩、砂岩、緑色岩、安山岩の12種類である。このうち石斧石材の黒雲母粘板岩、砂岩、緑色岩は、地元の領家帯に由来するもので、天竜川上流の西側の木曽山脈に分布する。おそらく採集地は遺跡近傍の天竜川右岸の大きな支流だったと推定される。つまり、神子柴遺跡は石斧の石材獲得に優位な場所であった。黒曜石全点は遺跡から50kmの和田峠黒曜石原産地群のものであることが産地推定から判明、遺跡から60㎞西方の岐阜県湯ヶ峰産の下呂石もある。尖頭器や搔器の「玉髄」は、新潟県中・北部の日本海側に産地が推定され、珪質頁岩も新潟以北のものであろう。

【時期】
 後期旧石器時代最終末の稜柱系細石刃石器群以降で、削片の存在から削片系細石刃石器群の一部と併存、土器は見られず隆起線文土器以前のもので、同じ神子柴系石器群でも最古段階と考えられる。
 火山灰分析では、約30000cal BPの姶良丹沢火山灰(AT)が、石器群のレベルより下位から検出され石器群はそれより新しい。黒曜石の水和層年代では12400±400年の値が6点ほどあり、石器群の年代に比較的近いものと考えられる。放射性炭素年代は得られていない。

【議論】
 神子柴遺跡をはじめとした神子柴系石器群をめぐっては、主に4つの議論が今日までなされている。すなわち「性格論」・「機能論」・「出自論」・「時代論」である。この4つの議論は、他の石器群(あるいは時代)にも通底する根源的な問題であり、「神子柴論争」とも総称される(堤2013)。
 上記4議論のうち「性格論」、つまり神子柴遺跡の性格に関しては、「祭祀説」・「墳墓説」(佐藤2018)・「デポ説」(田中2000)・「住居説」(稲田2001)などが出されており、今日でも決着をみていない(堤2013)。

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環状の石器分布

 「機能論」に関しては、完形かつ大きな石器が多い神子柴の石器が、実用の道具なのかあるいは威信財なのかが論点になっているが、一部の尖頭器や小形石斧などは明らかに使用されたことが使用痕分析から判明している(堤2008)。かつて「渡来石器」とされロシアからのルーツがたどられた神子柴系石器群であるが(岡本1979、栗島1991)、今日では列島内での自生も検討され(安斎2002)、その「出自論」も論争のひとつである。石刃の存在をもって旧石器時代とするのか、見え隠れする土器をもって縄文時代とするのか、あるいはあえて移行期と呼称するのか(谷口2011)、「時代論」も議論の分かれ目である。

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神子柴系石器群の分布(堤2013)

【資料収蔵・遺跡見学】
 長野県伊那市の伊那市駅前にある伊那市創造館において石器全点が収蔵・展示される。また、そこから車で15分の位置に神子柴遺跡があり、説明板が立てられる。地形は大きく改変されず残っている。

【引用・参考文献】  ※ 主要なもの15点以内にとどめた
安斎正人 2002「『神子柴・長者久保文化』の大陸渡来説批判―伝播系統論から形成過程論へ―」『物質文化』72 pp.1-20 物質文化研究会
稲田孝司 2001『遊動する旧石器人』170p. 岩波書店
岡本東三 1979「長者久保・神子柴文化について」『研究論集』Ⅴ  pp.1-57 奈良国立文化財研究所
栗島義明 1990「デポの意義―縄文時代草創期の石器交換をめぐる遺跡間連鎖―」『埼玉県埋蔵文化財調査事業団研究紀要』7 pp.1-44
栗島義明 1991「北からの新石器革命」『考古学ジャーナル』341 pp.8-13 ニューサイエンス社
佐藤宏之 2018「神子柴遺跡はなぜ残されたか」 『シンポジウム神子柴系石器群:その存在と影響』pp.5-8八ケ岳旧石器研究グループ
田中英司 2000「斧のある場所」『日本考古学』9 pp.1-19 日本考古学協会
谷口康浩 2011『縄文文化起源論の再構築』293 p. 同成社
堤  隆 2008「神子柴遺跡における石器の機能推定」『神子柴』pp.268-289信毎書籍出版センター
堤  隆 2013『狩猟採集民のコスモロジー:神子柴遺跡』P94新泉社
中村由克 2008「神子柴遺跡出土石器の石材とその原産地の推定」『神子柴』pp.220-241 信毎書籍出版センター
林茂樹・上伊那考古学会編 2008 『神子柴』407 p.信毎書籍出版センター

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