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森嶋 稔 【旧石器電子辞書】 <も>

 森嶋稔(もりしま みのる 1931~1996)は、長野県の旧石器考古学者。神子柴文化の研究、男女倉技法の提唱、系列文化編年の立案などで知られ、千曲川水系古代文化研究所を主催、長野県考古学会長などを歴任した。
(写真左より宮下健司・ 堤 隆・森嶋稔・芹沢長介)

1  生い立ち
 1931(昭和6)年長野県戸倉町(現千曲市)生まれ。小学生の頃土器拾いに夢中になり、考古学に関心をもつ。長野工業高校、信州大学教育学部を卒業後、小学校教員となった。大学で考古学を専攻したわけではなく、指導教官もおらず、独学。
 長野県内の小学校を歴任する中、各地の遺跡の発掘調査を行った。また、旧戸倉町の自宅を千曲川水系古代文化研究所とし、勉強会を行うなどして多くの後進を育てた。1996(平成8)年没。享年65歳。
 「前向きなんか生ぬるい、前のめりに生きろ」
 森嶋が吐いた言葉であるが、多様な学究を行った森嶋を体現した言葉でといえる。

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唐沢B遺跡(菅平高原)の調査(上)と神子柴型石斧の出土状態(下)

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2 考古学的業績

 ここでは旧石器研究に限って業績を取り上げる。
柳又ポイントの発見と調査 1953(昭和38)年、初任地である木曽郡開田東小学校教諭時代に柳又ポイントを発見する。奇しくもこの年は林茂樹が神子柴遺跡を発掘した年でもあった。翌1959年、樋口昇一らと柳又遺跡の発掘調査を実施、1962年にも柳又の調査を行った。
上ゲ屋遺跡の発掘調査 森嶋の旧石器遺跡探求の情熱は留まらず、1961年長野市上ゲ屋遺跡の調査を実施、上ゲ屋型彫器の発見と、東山系、杉久保系、茂呂系、国府系、神子柴系など多様な石器群を検出、後の系列文化編年の構想を得る。
神子柴系文化の探求 神子柴遺跡の調査から10年後にあたる1968年、長野県菅平高原の唐沢B遺跡の調査を敢行、以来、神子柴型石斧などを探求、多くの論文を発表し、ソビエトにも調査の足をのばす。
男女倉技法の提唱 和田峠黒曜石原産地においてバイパス建設のため男女倉遺跡群の発掘を指導、両面調整体の石器製作運用技術である「男女倉技法」を提唱する(森嶋1975)。
系列文化編年の提唱 東山系、杉久保系、茂呂系、国府系、神子柴系の5系統からなる系列文化編年を提唱、その背後に人間集団の異なりを見出そうとする(森嶋編1980)。
 このほか、森嶋の関心は旧石器・考古学に止まることなく、民俗・民芸・書・詩作など幅広くおよんだ。また、森将軍塚古墳(現在国史跡)など地域の文化財保護にも大きく貢献している。

※ その生涯や人となりについては、以下を参照されたい。
長野県考古学会 1997『長野県考古学会誌:森嶋稔先生追悼号』82 142p. 

3 主要論文・著書

森嶋 稔 1966「上ゲ屋型彫刻器をめぐって」『信濃』Ⅲ18-4
森嶋 稔 1968「神子柴型石斧をめぐっての試論」『信濃』Ⅲ20-4
森嶋 稔 1978「男女倉技法の周辺」『信濃』Ⅲ18-4
森嶋 稔 1979「中部高地における細石器の展開とその系統」『地域研究の方向』研究ノート3
森嶋 稔 1986「神子柴型尖頭器とその周辺の二,三の課題」『長野県考古学会誌』52
森嶋 稔 1996「和田峠周辺遺跡搬入石器における二,三の課題」『和田村の黒曜石をめぐる課題』
森嶋 稔編 1980『編年』 千曲川水系古代文化研究所
森嶋 稔 1989『あたりまえ』
森嶋 稔編 1998『唐沢B遺跡』 千曲川水系古代文化研究所

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