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一富士・二お茶・三まる子。

さくらももこさんが亡くなった。
月並みな言葉だけど、ショックだ。
人はいずれ死ぬなんてわかっちゃいるけど、ショックだ。53歳で亡くなったなんて、死因乳がんなんて、これまたショックだ。

私の母親は現在59歳。2004年位に乳がんが見つかり1度手術した。その2年後にまさかと思ったが再発し、左の乳房を全摘した。抗がん剤治療もやり、髪の毛が抜けた。カツラも被ってた。今も年に1度か2度千葉大の病院に行ってるけど、おそらくもう再発の可能性は低くなっている。
乳がんで亡くなる人のニュースを見る度私も他人事ではないなと思う。

そして、私の母親は静岡県清水市(現静岡県静岡市清水区)の生まれだ。さくらももこさんより6つ程歳上であるが、母親もちびまる子ちゃんの舞台となっている清水の入江小卒業だ。ちなみに高校も同じだ。私の生まれは千葉市だけど、母方の実家にはよく行った。今も行く。だから私の第2の故郷は清水だと、ずっと思っている。

家には私が小さい時からちびまる子ちゃんの漫画があった。もものかんづめ・さるのこしかけ・たいのおかしらの大ヒットエッセイ3部作もあった。もちろん小学生の時に読んで大爆笑した。多分小学校の図書館にあるような児童文学の本以外の「おとなの本」を読んだのがこれが初めてだったんだと思うし、そういう小学生はたくさんいるよね。小学生ながらにさくらももこさんの様なお話が書けたら面白いなと思った事はあった。一方で子どもが読んではいけないようなトンチキエッセイもあったけど。
それから雑誌「富士山」も親が買ってきた。ビートたけしさんとの対談が印象的だった。ちびまる子ちゃんのテレビアニメも見てたし、もちろんコジコジも見てた。当たり前のように見てた。

清水に行けば「ここが巴川だよ」と母親が教えてくれる。「氾濫した話あったね、ママさんは大丈夫だったの?」と聞いたり、追分羊かんの暖簾を見る度「まるちゃんに良く描かれてる暖簾これだよ」と教えてくれた。清水みなと祭りも昔は良く行った。花火も見た。フェスタ静岡の時期に静岡行くことはなかったけど、「あー、西城秀樹ねえ来てたかもねえ」と母親は言っていた。

お茶もみかんもはごろものシーチキンも黒はんぺんもマグロもしらすも桜えびももまる子のいうとおり静岡の名産品だ。春になると静岡から新茶が送られて来て、冬になると静岡からみかんが送られてくる。はごろものシーチキンが段ボールの間に挟まってたりすることもある。たまに祖父母が銀行でもらった清水エスパルスのマグカップとかスリッパとか入ってる事もあるし、さくらももこさんがデザインしたお茶屋さんのノベルティが入ってたりもした。行けばしらすや桜えびもを普通に食べるし、千葉に帰る前には必ずスーパーの安い黒はんぺんを買う。そんな風にして私は清水に縁深い千葉市民だった。
清水のドリプラのちびまる子ちゃんランドにも行った。また近年になれば、さくらももこさんが市のプロモーションを担当してた事もあって、静岡県降りた時点で、さくらももこさんの絵に迎えられたのを覚えている。静鉄のちびまる子ちゃん電車もあるね。当たり前だった。当たり前のようにまる子は静岡にいて、愛され続けていた。先日私が清水に行った時も追分羊羹の暖簾を見て、その暖簾の前にまる子とたまちゃんの姿を見た。その前5月に行った時も、同じく、そこにまる子とたまちゃんの姿を見た。

大好きだった。時にはブラック過ぎるユーモアもあり、時には凄く切ないストーリーもあり、でも1本の短い作品の中で、くすくす笑えて、でも泣けるところが。実在する人物たちを見つめるさくらさんの冷めつつも温かい視点が。時にトンチキ過ぎる話もあるけど、でも捻くれてるだけで終わらない、人や場所に対する愛情が滲み出ている感じが、とても。

そういえば一月半ほど前の事だが、オンラインサロンの講師である小野美由紀さんから頂いたフィードバックがとても胸を打った。

ご自身の感じたことを精密に描写し、外側の何か(身近な人やその人の言葉など)に結びつけることで、多くの人に届く形にして届ける力があるように思えます。くすりと笑えるユーモアがあって面白いし、人のキャラクターを際立たせて描ける力は他の人にはない才能です!(中略)立派に「書く私」が育っていますね。今後もたかなしさんの中の”小さなみるくちゃん”と一緒に冒険してください。

このメッセージを読んで、私はとてもびっくりした。そして心打たれた。
どういう意図で書かれたのかはわからないが、「あ。私の文章ってそう見えてるんだ」と思った。私から見た私の周りに生きる人を描く、クスリと笑えてそして、何か心に残して行く様に描く。「小さなみるくちゃん」と共に冒険をする。
これぞまさに私が大好きだったちびまる子ちゃんではないか、と思った。
最近また書くのサボってるけど笑、でもそうやって見てくれた人がいたのは私にとって本当に本当に嬉しい事だった。
あまり笑える話とか書けないしそもそもルサンチマンに塗れて捻くれた人間だけど、でも、さくらももこさんの持つ視点を思い出し「あ、そっか、私さくらももこさんみたいなエッセイ書きたいのかもしんない」って思った。それだけに、なんつうかもう、こんなにすぐ亡くなると思ってなくて。
私の胸の中にいる小さなみるくちゃんも、この訃報にショック受けてます。2人でめそめそしています。

もちろんちびまる子ちゃんもコジコジも作品としては残り続ける。臼井儀人先生亡き後もクレヨンしんちゃんはずっと春日部の平和を守ってるから、まる子はこれからもずっと清水の街でお気楽に過ごし続ける。長谷川町子亡き後もずっとサザエさん一家は桜新町にいるんだし、それはそうよ。そんな事わかってる。

でも、(これはサザエさんもかな)あくまでもまる子は作者の分身。作中に出てくる小学校の名前も出てくるお店の名前も土地の名前もそのまま。

清水に行くとその度に絶対まる子の事思い出すんだ。もうそこにいて当たり前というか。清水に行けば富士山が当たり前の様に見え、当たり前の様に黒はんぺんが売っていて、当たり前の様にうなぎパイが手に入るのと同じ。同じ感覚で、当たり前のようにまる子がいた。当たり前過ぎて見えてなかったかも知れないくらい、当たり前だった。母親と同郷だからという理由で触れたさくらももこさんの作品だけど、その理由以上にさくらももこさんの持つ影響力は世界的に凄かったんだなと思っている。
別にまる子が死んだわけじゃない、と知りつつも、どこか、まる子が死んでしまったと錯覚してしまう。当たり前の様に清水の街に暮らしていて、誰よりも清水の街を愛していたまる子が死んでしまった。ある種清水のアイデンティティが消えてしまった、位の感覚に陥っていて、今も涙が出てくる。こんな風にキャラクターと作者がごっちゃごちゃになってしまう事もなかなかない。

※ちなみに2013年に作られた「まるちゃんの静岡音頭」は静岡市オフィシャルのPRソング。
作詞さくらももこ、作曲細野晴臣、編曲コーネリアスの小山田圭吾、唄は電気グルーヴのピエール瀧(電気グルーヴは2人とも静岡市の人ですよ。)と、世にもゴージャスすぎるメンツで作られた緩い曲、マジ驚いた。

さくらももこさん自身ついこないだ「まる子のマンホールがあったら可愛い」って言って寄贈したばかりだったんだってね。こないだ清水駅で降りればよかった。
それが現在進行形なだけ、こう。言葉を失ってしまう。

テレビの放送はこれからも続くし、そりゃそうだろうと思う。これからもプロダクション側は静岡市のプロモーションに関わり続けて欲しい。本当にそう思う。別に観光客を呼び込むコンテンツどうこうじゃなくて、あの街にはまる子がずっとずっと住んでるんだから。それを絶やさないで欲しい。私が次清水に行っても、変わらずまる子が出迎えて欲しい。みんなのまる子。みんな大好きなちびまる子ちゃんよ。


きっとさくら先生は、富士山眺めながら、新幹線に乗って天国に行ったかな。そして、虹になって清水の街を見守っててくれるかな。

本当にご冥福をお祈りします。また、清水の街で、会いましょう。

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