かくれキリシタン〜外海
「その日、カトリックの教会の祈りとかくれキリシタンのオラショがまさに一堂に会するのだ。」
その日というのは、毎年11月の初め。枯松神社祭においてです。
長崎県外海、枯松神社。
正確には、「神社」として登録されていません。
じゃあ何なのか?
キリシタンの聖地です。
どうも、「江戸幕府による禁教が始まった頃、密かに長崎県西彼杵半島を布教して回ったと言われているジワン神父はここ枯松の谷底の岩に身を隠しながら地域の住民の指導をしていた。ジワン神父の死後、山の上に墓を作り、その墓の上に枯松神社を建立した」そうです。
禁教時代、ジワン神父の墓がばれたら破壊されて、心の隙間に拠り所がなくなってしまう。だから、神社を建てたという事だそうです。
禁教時代、キリシタンだった人たちがやむを得ない理由で、カトリックや仏教徒の信徒になったということがあったそうです。
かくれキリシタンで居続けた人たち。
カトリックや仏教徒に改宗した人たち。
でも、潜伏時代にジワン神父の指導を受け、この場所を心の拠り所として崇敬してきたという同じ思いを受け継ぎながら、時代の流れで分裂せざるを得なかった人たちが、再び一つになろうとしている。
枯松神社は、今も昔も地域住民の心の拠り所になっているのかもしれません。
そして、僕の心の拠り所って何だろう?
宗教に関する本を読んでいると、良くも悪くもそれが心の拠り所になっている。だからこそ、拷問に会う可能性が多少なりともありつつもキリスト信仰を続けていたわけです。
じゃあ、僕の心の拠り所とは?
これは、何のために生きているのか?
とも似ていると思います。
今日一日、考えてみたいと思います。