誤植から二重性について考える

私の持っている第1刷の『25年後の東浩紀』の141頁には誤植がある。それは「だか」という接続詞の誤植である。文脈的に言えば、「だから」と書きたかったのだろう。しかし、これはもしかすると、「だが」の書き間違いかもしれない。「ら」を付け加えるか、「゛」(濁点)を付け加えるか、それを私に迷わせる、そんな効果があるかもしれない。なんだかそれが面白いと思った。

2024/6/6「世間体と耳」

私は誤植を見つけるのが割と得意である。一冊でだいたい三つくらいは見つけられる。だからと言ってちゃんと読んでいるわけでも読めているわけでもないが、結構気を張って文章を読んでいるのだな、と驚くことは多い。さて、今回は上で書かれているような「誤植」から考えてみることにしたい。(ちなみに私は誤植があろうとなかろうとほとんどの場合大して影響もないのでどうでもいいと思っている。しかし、今回はそうではないと思った。だから書いているわけである。)

ここでの「誤植」を形式化すると、「AだかB」ということになるだろう。文章を極めて形式化するなら「A→B」となるから、今回は→が順接か逆接か、それを判断させる記号として「だか」が機能していたということになるだろう。そして、文脈的に言えば、確実にこれは「だから」の「誤植」であるが、もっと曖昧な場合であればこの「だが」は「だが」にも「だから」にもなり得るポテンシャルを表現しているように見えるということが面白かったのである。

しかも、どちらも私たちが「付け加える」ことによってしか読めるようにならない。だから、私たちはずっとどちらを「付け加える」か、すなわち「ら」を付け加えるか「゛」を付け加えるか、それを考えなくてはならなくなるのである。このことが重要なのは、仮に私たちが順接も逆接も「でら」で表現している場合を考えればわかる。この「でら」は順接もしくは逆接であるような記号である。だから、「付け加える」必要はない。それぞれが勝手にどちらかで読めばいい。そういう権利が私たちにはある。しかし、「だか」の場合は「付け加える」ことをしないといつまでもその「付け加える」を求める力は弱まらない。

それがどうした?と言われれば、別にどうしたということはない。しかし、二重性がすでに内包された記号と二重性が常に内包される記号は別のものではないだろうか。これは別に接続詞に限った話ではない。ただ、接続詞だからこそ生じる問題というか、面白み、滋味もあるだろう。今日はとりあえずこの発見を喜ぶことにしたい。発見したこと、そして私がこのことを発見できる鋭敏さがあったことを。

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