「享楽」を目指して

 さて、もう0時を超えている。眠たい。しかし、私は何かを書こうと思う。途中で眠たくなるだろうという、そういう状況でのみ書けることがあるように思われるからである。しかし、何について書こうか。
 今回は「享楽」について書こう。私は「享楽」を重んじている。ここでの「享楽」がどのようなものであるか、できるだけ簡明に説明してみよう。ここでは「賦活」と対比して考えてみよう。
 まず、どちらもに共通するのは「外から訪れる何かを内側の豊かさに変換する」ということであるように思われる。しかし、「享楽」と「賦活」では「変換する」ということの形態が異なる。(と、書いてみて内と外という対比もここには存在しているが、それはとりあえず「変換する」の議論から導けるような気がするのでとりあえず保留しておこう。)
 「享楽する」は「すでに変換されている」という形で保持される。ここでわざわざ「保持」というややこしいファクターを付け加えているのは「享楽する」を意識するとそれはもはや「享楽した」であるからである。さらに言えば、「享楽した」というのは「快楽」ではあっても「享楽」ではない。「享楽」はいつも「快楽」になっている。しかし、「享楽」と「快楽」は異なるのである。
 これは最近読んだもので言えば『ゼロからはじめるジャック・ラカン』で説明されていた「自我」と「主体」の違いに比することができるかもしれない。細かく確認する気はないので引用とその説明だけになるが引用してみよう。

「偽の主体としての自我の外に、真の主体としての無意識の主体がある」という考え方は正しくありません。存在するものは自我だけです。主体は(潜在的にしか)存在せず、瞬間的に、<生じる>ものでしかありません。だから主体を白日の下に曝け出して、その有り様を余すところなく語ろうとしても無駄です。そうしようとした時には、主体はもはやどこにもないのですから。

『ゼロから始めるジャック・ラカン
-疾風怒濤精神分析入門 増補改訂版』87頁

 ここでは割とたくさんの文脈が交わっていますが、さしあたり重要なのは「主体を白日の下に曝け出して、その有り様を余すところなく語ろうとしても無駄です。そうしようとした時には、主体はもはやどこにもないのですから」というところです。ここでの「主体」を「享楽」に換えてみると、「享楽を白日の下に曝け出して、その有り様を余すところなく語ろうとしても無駄です。そうしようとした時には、享楽はもはやどこにもないのですから」ということになります。また、「自我」は「快楽」に換えてみると「存在するものは快楽だけ」ということにもなります。ここでの存在論はハイデガーやレヴィナスにも存在していて、特にレヴィナスは「エロスの現象学」と呼ばれる領域が重要だと思われますが、ここでは煩雑になるので、また、私がそれをそれこそ「賦活」に向けられていないので示唆に留めます。
 さて、「賦活」というのはこのような構造、存在論的構造を用いて、その構造をより活動させることを目指します。言い換えれば、「享楽」が「すでに変換されている」という「保持」をしていたのに対して「賦活」は「これから変換されるだろう」という「保持」をします。
 と、書いてみたのですが、この時間的な区別、また文型的な区別は「エロスの現象学」が『全体性と無限』から『存在の彼方へ』(色々呼び方はありますがとりあえずこれで)への転換に依拠していますね。つまり、私は知らず知らずのうちに「エロスの現象学」について語ってしまっているということです。ただ、それを主題にすることはできません。じゃあなんで触れたのか、と言われると困ってしまうのですが、とりあえず示唆を強めておきたいと思ったのです。しかし、もしかするとこの示唆は余計な示唆(まあ、余計ではない示唆なんて存在しないかもしれませんが)だったかもしれません。なんというか、私はいま、私の性急さを悔いています。その性急さというのは「享楽」と「賦活」を時間的に、さらには文型的に捉えてしまった性急さです。

 何かを語ることは難しいですね。最近は特にそれを痛感します。なんというか、イメージだけで言えば、「享楽」というのはもうすでに豊かであることです。それに対して「賦活」というのはこれから豊かになろうとすることです。しかし、それ以上のことはまだ、私にはまだ語れなかったのかもしれません。以下、感覚だけで書きます。

 書けませんでした。もう、繋がりとかどうでもいいのだとすれば書けるかもしれません。書いてみます。あと、眠たいので特に終わりの挨拶(?)もなく終わります。おやすみなさい。あ、推敲はします。推敲後記は書きません。おそらく。

「賦活」が目指すのは「享楽」である。しかし、実際に「賦活」が目指すのは「快楽」である。この落差の確保こそが「享楽」と「賦活」の関係を規定している。

なぜ「賦活」は「快楽」を目指さないか。いや、それを目指しているのである。語るときにはそのようにしか言えない。だから私はいつも言っているだろう?「偏り」とか「癖」とか、ああいうのはそのことを示している。「Xを目指す」という語り方では「快楽」を目指すしかない。そして、その「快楽」をそれとして示すには「偏り」とか「癖」とか、そういうことによって領域を劃定する必要がある。

この劃定にはラカン派の精神分析が役に立つかもしれない。

なんというか、なぜか好きなこと、とか書くと、なんというか、よくわからないなあ。

私はいつも「持続する個人」の虚構性に気を取られて問題を逸してしまう。しかも、「持続する個人」という虚構は問題にすらならない。当たり前すぎるからである。

「享楽」というのは「快楽」をそれとして限界づける動機を与える。

そして「賦活」というのは限界づけるという実践のことである。

なぜ「限界づける」必要があるか、と言われれば、そうしないと私たちは何もできないからである。考えすぎたら行為できない。千葉雅也も『意味がない無意味』で述べている通りである。ちゃんと引用してこれればいいのだがいかんせん眠い。

じゃあ寝ろ、と言われそうなのでそろそろ寝よう。最後に唐突な希望を語っておこう。これまで生きてきて、どうしても考えてしまうことがいくつかあった。それらは時たま私の生活を脅かした。が、いま、そのことのおかげで哲学を勉強していてたまに、ほんの少しだけ問題意識を、問題ではなく問題意識を共有することができているという実感がある。もちろん、私は哲学を勉強するために考えてきたわけではない。考えたくもないのだが考えてしまっていただけである。しかし、なんというか、それが、それこそ「享楽」になり、「快楽」になり、「賦活」の手がかり足がかりとなり、私は私の豊かさを再発見することができている。気がする。特に私はあなたたちに何かを伝える気はない。しかし、何か伝わる気はしている。これを読む人からすればこれほど傲慢な態度はないだろう。しかし、この傲慢さなしにわざわざ書く気力も勇気も出てこないのである。おそらく。
 
 さて、次の日の私です。推敲しました。珍しくほとんど改稿することもなくするりとここまで来ました。今日、私は次に見るようなことを書きつけました。私の日記に。これは『ニッポンの思想 増補新版』を読んでいるときに書き始めました。途中からはそれから離れていっていますが、その離れがここに接続しているように思われたのでここに置いておきます。

そういったパフォーマンスはつまらない、というパフォーマンス。以下略。という形になった場合、それをどのように再び賦活するかが重要なのである。

私が「賦活」というテーマを巡っているのは「賦活されない」ということが実感としてあるからである。いわゆるアパシーがあるからである。無感動があるからである。

その意味で「享楽」というのは「アパシー」に対比されると考えることができる。それゆえに「快楽」とは「享楽」と「アパシー」が共に立つ基盤であると考えることもできる。そして私はおそらく「享楽」に価値を認めているから基盤を「守る」こととして「賦活」ということを考えているのかもしれない。

しかし、ここでややこしいのは「賦活」にも「限界づける」ということが必要だということである。「享楽」しすぎるとオーバーしてしまうのである。その次元にはアディクションとアパシーが繋がるという現象がある。だから適度に「賦活」しなければならないのである。そしてそれがおそらく「賦活」について考えることにも刻印されているのである。

アパシーは「以下略」によって示される無限に対して向けられる。それに対してアディクションは同じ構造の無限の反復に向けられる。それゆえに「賦活」は「限界づける」ことであるのである。

 一つだけ。私は最近哲学なり文学なり、そういうことに飽きてきている。だから私は最期、昨日の最後に私を勇気づけようとしたのかもしれない。私としては珍しく直接的な物言いで。私はやっぱり哲学なり文学なり、そういうものが好きなのだろうと思う。けど、私は何もせずとも「享楽」できていない。「享楽」するために忙しなくしている。そのことを私は見つめている。それが「賦活」という問題なのだろうと思う。「快楽」は擦り切れてきている。新しい「快楽」を作ったってそれは擦り切れるかもしれない。私はおそらくそのように思いながら「限界づける」ことでその擦り切れを少なくとも遅延させることくらいはできるのではないかと思っている。私は「変容」、「変化」ではなく可能性をなんとなく予感しているのだろう。なんだか寂しいというか、そういう気持ちもあるが、幸い私はたくさんのことを書いてきたからそれを読んで懐かしむことでそれを慰めよう。
 さて、意味のわからない最後になってしまったが、これで終わりである。まだ書くよ。

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