つらつら


あれやこれやと。
自分が「愛」と思っていたことがすべては罪悪感から成り立っていたことに気づいて愕然とする。

愕然とした状態とは、恥、罪悪感。20から30の意識レベル。


自分の感覚イコール相手の感覚という、境界線の曖昧な私は
「自分が糞だから相手も糞」
・・・いや、もっとひどい、
「自分はいいモンだけど相手は糞ばかり(なので私が頑張らなきゃ)」という
本当に糞だらけの価値観で生きてきた。


「自分がつらいからといって、相手がつらいとは限らない

「自分が糞だからといって、相手が糞とは限らない」
この教えは、足元を根こそぎかっさらい、
私はプロレス技にかけられたように脳天から落ち、目からウロコが剥がれた。


それでもまだ襲ってくる、
「でも。。。私が行かないと、あの子達が。」
「でも。。。私が行かないと、何を思われるか。」という感情の浮上。

まだ私はここの領域にいて、右往左往している。
私はまだ、「自分はできるやつ」と思っている。


気づき、分解をお願いし、委ねる。


そして、自分に深く向き合おうとすると襲ってくる眠気。
これにも罪悪感。


気づき、分解をお願いし、委ねる。


昨日、気づいたつもりの私は、これらの分解作業をやるのは自分ではないことを忘れて、調子外れの大声で「バナナの王様~!バナナの王様~!!」と腰に手をあて、左右に揺れながら歌っていた。

私はここをすぐに忘れる。
自分でどうにかうまくやろう、とこねくりまわす。
自分のやり方で、どうにかできると思っていることに気づく。
今までこだわっていた私のやり方の癖、思考の癖、嗜好の癖が残ってる。


気づき、分解をお願いし、委ねる。


委ねたあと、「もういなくなりました?分解してくれました?」と心の底を目の細かいフルイでさらう。ニラニラした気持ちでまた、これでは全然委ねていないことに気づく。


気づき、分解をお願いし、委ねる。


向き合うこと、見つめることがしんどくて、
今まで抵抗していた。
そりゃそうだ、自分は誰より害悪だった、と自覚するのはつらいから。


だけど、気づけるところから小さく小さく気づいて行くと
今までどれほど自分を麻痺させていたのかがわかる。ここまで感情に蓋をして、ここまで間違った私のやり方を押しつけて、その結果の現実を受け取って、それでも生きてきた過去の自分がいとおしくなってくる。


本当によくがんばった、つらかった。
本当によくがんばった、よく生きてきた。
本当によくがんばった、もう大丈夫。
もうがんばらなくて大丈夫。


向き合うことは全然つらい作業なんかじゃない。
一時的にはつらいけど、最後には「愛」になることを知っているから。


そしてまた気づく。

私は向き合おう、見つめようとすると、頭のなかで色々な思考がゾワゾワザワワと蠢いて色んな声がして、結局落ち込むことが多い。うまく向き合えない。


いつか先生が教えてくれたことがある。

「何でもいいから書いていきなさい。日々のことでも何でも。あなたはそれで覚醒するから」

私はそれをまた自分のいいように曲解し、
「エッセイストになる才能があるのね、私は将来そうなるのね」という、アホすぎてもはや気持ちいいほどの天狗になっただけだった。


今なら「こういうことだったのか」という理解ができる。

きっと先生はわかっていたのではないか、
私は頭のなかで考えると混乱するので、
まずは頭の中を文章にすれば、自分をしっかりと見つめられるかもよ、
自分の感情を目で見て(読んで)、そこからまた気づけることがあるかもね。
と、教えてくれたのではないか。


先生からよく言われる
「クリアな視点を持ちなさい」という言葉と、
「書きなさい」という言葉がすんなりと今、合わさって腑に落ちた気がした。


今、気持ちが軽くなった。
書きはじめとは全く違う軽さになった。



「ね?世界は、優しいでしょう?😊」
声がきこえる。



はい。世界は、優しいです。



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