逆張りのお守り

逆張りのお守り。

2日ぶりのシャワーを浴びながら、そんな言葉が浮かぶ。

小説や、ドラマの設定で
こんなエピソードが語られることがある。


その主人公は、かなり過酷な人生を歩んでいる。
それでも生きてこれたのは、

「これがあれば、いつでも死ねる。生きてみて、もしも本当にダメだと思うときが来たらこれを飲みなさい」と
大切な誰かから遺された、たった一粒の青い錠剤があったから。

いつでも死ねると思っていたから生きてこれた。
そんな「逆張りのお守り」。


こんな記憶がよみがえった。

昔、「完全自殺マニュアル」という本が出た。
かなり物議を醸したのを覚えている。

ブームが過ぎてしばらく経って、古本屋で100円で売っていたのを目にして手に入れて、
なんとなく「いつか読んでみよう」と
居間に適当に置いておいた。

ある日、家族に
「お願い、こんな本読まないで」と泣かれた。

純粋に驚いた。
ただ、興味があっただけなのに。
だからこそ、こっそり読まないで、ただ積ん読の中の一冊として
目に触れるところに置いたのに。

この本を読むということ、
それだけの私の行動で、どんなに家族の心を重く震わせていたのかに気づいて、すぐに処分した。

強烈なエピソードだった。

でも、今は思う。
あれはやはり、私なりの「逆張りのお守り」だったんじゃないだろうか。


物語やドラマの中では、大抵こんなオチが用意されている。

たった一粒の青い錠剤は、ただの砂糖の粒だった。
そしてそれを知ったとき、主人公はその事実に愕然とするけれど、
気づいてみたらもう、今の主人公にはその粒は必要なくなっていた、というオチ。

「そんなお守りはもういらないかも、愛に気づいたから。生きていけるかも」


私にももう、こんな粒はいらない。
その本を再入手して、読もうとは思わない。

私は結局、今でもその本の内容を知らない。
「結局どんな方法でも苦しみますよ」なのか、
「この方法がベストですよ」なのか、
私は知らない。それでいい。



「生きることと死ぬことは、対極ではなくその一部である」

そんなことを書いていたのは、村上春樹だったっけ。

先生は言った。

「科学を極めても、オカルトを極めても、結局ゴールは一緒です。どちらの道を選択しても同じならば、選択するのは自分次第」

私は、光の方へ進むことを選択し、宣言する。


閑話休題。


私には水分過多の問題があった。
私の時代では、部活の練習の3時間の中で水を飲めるのは途中休憩の5分だけ、
それもコートの雑巾がけを行ってから。
後輩は体育館脇の近い水道を使ってはいけないから、
遠くの水道まで走っていって、ガブガブと飲めるだけの水を喉に流し入れ、
その後は胃をガボガボ言わせながら走っていた。
もちろん、練習の効率はものすごく悪かった。

「練習中は、水を飲んではいけない」
こんな馬鹿げた常識が、
数十年たった今では
「水分はこまめに摂りなさい」という常識に
すんなりと変わっている。

過去のトラウマを癒してもらいながら、今思うことは、
過去の常識がこんなにもするりと変わるということへの驚き(拍子抜け、の方が近いかも)

先生は、色々な比喩で何度も同じことを伝えてくれたことを思い出す。

練習中の水分摂取の話で、やっと腑に落ちた気がした。


「今」それが破天荒だと自分のエゴが騒いでも
「少し先」の未来に必ず常識が変わる日がくる。


だから、手放す。
自分のやり方、自分の常識がいかに馬鹿げたものであるかということを
こんなことでも気づかせてもらったのだから。


そんなことをつらつらと頭に浮かべながら摂った夕食。不思議だったのは、毎日飲んでいたビールが今日は飲まなくても平気だったこと。お水がおいしかった。



私は愛の方を目指して進む。
ベイビーステップで。

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